調和的な生

 本当にいい作品を書くための努力とはどういうことか、若い時から随分考えてきたけれど、結局は「ちゃんと生きる」といったところに落ち着いた。

 ただ無闇に書き続けるのでもなく、読みあさるのでもなく、また校正し続けるのでもなく、ひとえに自分の生を充実させるということ、そこにいい文学がある。

 大杉栄の考えであるし、志賀直哉の生き様であろう。新しいことではない、しかしやはり生の充溢の瞬間に発せられる言葉が、最も美しく強いという事実は、認めざるを得ない。

 自分にとってのそういった充実が一体何処にあるのか、それを考えて悩む訳だが。生の充実の在処は、既存の幸福の概念とはよく隔たっている。一方で隔たっていない場合もある。

 破滅的な生き方も、充実を探る姿勢とすれば、何も批判はないが、充実を放棄して「破滅的たれ」というのは小児的である。晩年のゲーテの境地、晩年の志賀の境地、その異様な「調和」は、作家の至るべき場所である。

 言葉を発するのは人間である、一人の人間である。その人が生というものを真剣に把捉したということ以上に、強い力になるものはないのである。その時はじめて、死さえ書くことができる。

(2012.7.16)

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