自意識を捨てる

 小説の目標は「自意識を捨てる」ことにある。これは単に客観的目線に立つということでは勿論ないし、自己を感覚だけの存在のごとく描くということでもない。自我が感受し、思考していながら、自意識が消え去る、それが理想である。

 自意識は非常に面倒なもので、色々な隠れ蓑をもってすぐに書き手の内側に入り込む。「自分をよく見せたい」「格好よく見せたい」というのはまだ全然良い方で、「こんなことくだらないと知っている」「意味なんかない、とわかってる」というポーズが厄介な自意識の作動である。

 書き手の情感が書かれていないからといって、自意識から「素っ気なく書いた」風の文章と、冷厳に対象を見据える文章は違う。後者には対象を強く求める目線において、自意識が消えているのだ。藤村のように。その対象が自己であっても。

 またあえて思考を書かず、感性のみでわざと書くのも自意識である。子どもならよい。しかし一定の年齢の人間が感性でしか捉えないのは作為的であり、「自分 を感性的人間と呼んでほしい」という自意識である。人間は感受だけでなく、思考し、そして意志を持つ。それを書いてこそ十全な人間描写だ。

 武者小路実篤に、文壇の人間が驚愕したのは、その自意識の無さである。あれほど自己を中心に描きながら、自意識が全く無い。当時の作家たちは自身の自意識 の残存を言い当てられたようで、ある意味慄いたたのである。そして志賀直哉もまた驚異的な自意識のない主客の統一をやってのけた。

 武者小路や志賀という人は、私は感性だけの作家とは決して思わない。非常に知的であるし、論理的だと思う。彼らの数少ない批評には見事な論理があるし、そ れはずっと深く思考してきた人間のものだ。彼らは彼らのしっかりとした思考活動をもとに自意識を棄脱するやり方を見つけたのである。

 自意識を捨てる、その方法の一つは、意志であろう。純粋に高みを目指す意志。対象を完全に把握しようとする意志。いま以上の自己を求めて生きる意志。その意志の純化が、我々を自意識から本当の意味で連れ出す。

「良くありたい」という、人間が根源的に持つ意志は自意識ではない。自意識からそれを引き下げることはない。真顔になることを避けるのは、ほとんどの場合自意識である。そのとき文学は退潮する。

(2013.10.25)

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