同世代の人文系研究者に

 しかし見渡すと、自分と同世代の30代と、少し上の40代の人文系研究者のほとんどが、サブカルチャーを全肯定していて、目眩がする。サブカルチャーでは駄目だ、という若手知識人に全くと言っていいほど出会わない。

 サブカルチャーはもちろん存在していいし、知識人が娯楽として享受するのも別にいいと思う。けれど誰もが芸術と同じ水準で語ることに全く抵抗がなくなっているのは、異様に感じる。少しぐらい若手知識人の内部から批判が出てこないものだろうか。

 実感として、日本の30代から40代の人文系の研究者の、サブカルチャーへの偏愛は凄まじいものがある。その下の20代は、日常的に触れてはいても案外淡白で、サブカルチャーは「ふだんの遊び」、学校では「芸術を勉強してみたい」という意識である。だから教員にはサブカルチャーの知識を求めない。

 20代も10代も、30代や40代の人文系研究者ほどサブカルチャーを必要としてはいない。それを過剰に価値付けようともしないし、節度のある楽しみ方をする。受容の仕方として、非常に健康だと思う。そして彼らはもう少し生の実感に合った何かを求めている。だからすんなり芸術の存在も認められる。

 正直言うと、芸術ということの意味を最もしっかり説明できるはずの、人文系の研究者が、芸術を捨て、狂ったようにサブカルチャーを語り続けるのは、知の文脈において危機的な状況だと思う。前後の世代においても孤立していることは自覚すべきであるし、知識人としての立場を自省してもらいたい。

 こういうことを考える30代の研究者である私は、30代・40代の研究者の中では圧倒的に少数者である。重苦しい、逃げ場のない孤独を感じる。としても、純文学ということを守ろうとした高見順の研究者でもある私は、芸術が無いとは決して言えない。

 サブカルチャーを論じる同世代の研究者を批判すれば、激しい反感が向けられる。なかなか苦しい状況になる。本音を言えばかなり辛い。それでも50年くらいの時間軸で見たとき、譲ってはいけないと私は思う。

 私は「知識人」として気負っているわけではなくて、現代の研究者はそのままでは単なる大衆だと考えている。学位を持とうが、大衆と比べて何のアドバンテージもない。何の特権階級でもない。だから大衆文化を論じることに反対なのである。もともと大衆である人間が、大衆文化を語っても特に意味がない。

 自分がよっぽど大衆だと思っているから、私は芸術を目指したいのである。もう私たちは、大衆の方へ「降りて行く」存在ではない。「知識人」はとっくの昔に降りてしまった。だから芸術を見上げて、目指したいのである。

 ゲーテは若い弟子のエッカーマンに、そのジャンルの一番優れたものを最初に見せる。最高の絵画。最高の音楽。最高の文学。ゲーテのその判断が私は好きである。若い弟子を尊敬しているからこそ、最高のものを教える。その弟子の精神以上のものを。それがエッカーマンを人間として高めた。

(2014.10.21)

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