「政治と文学」という問いについて

 こういう社会情勢なので、自分の意見を率直に書いておくが、現在の文学者も学者も、デモのような社会運動に参加することにしっかりと問いをもってもらいたい。私は現政権の方針を全く肯定するつもりはない。だが、現在の文学者も学者も、かつて「政治と文学」という主題があったことを忘れすぎている。そのことに一つの危うさを感じる。
「政治と文学」という戦後の文学者を席巻した問いは、文学の理論としては、あまり上等な議論ではなかった。現在第一等の地位にいる評論家たちは、「政治と文学」という主題を過去のものとして批判することから始めた。
 別にそれはいい。だが結果として、その次の世代は、「政治と文学」という問いにまともに組み合うことがなかった。現在の若い文学者も学者も、デモに参加する前に、「政治と文学」の議論はひとまず読んでおいた方がいい。歴史的文脈が違い過ぎるだろうか? 我々はそこまで一つの思想にとらわれていないと思うだろうか? だが昨今の社会運動をめぐる姿勢への問いは共通するものがある。現在よりはもっと真剣な葛藤がある。

 私はその社会運動への参加へ、葛藤がなさ過ぎることが現在極めて不安である。いやもちろん葛藤はあるのだろう。その運動に加わることで、対外的な社会的評価において、不利益を被るのではないか等々。だが「政治と文学」の頃の葛藤はもっと違う層にある。

 文学者は政治的であってよいのか? という本質的な疑問だ。同じ主張を持っていても、政治的発想になることで、文学者性が失われるのではないか、という葛藤だ。

 もともと文学者は実利的な社会評価には興味が無い(最近は知らない)。自分の正義感と一致していても、「政治」的に行動してよいのか、ということである。同じ主張を持っているから、連帯すべきである、という思考は極めて政治的発想である。

 数を勝ち取ることで局面を動かそうとする近代以降の「政治」は、まさしく個々の微細な生の差を塗りつぶす。そうとは限らない、と思うのだろう、が、実際散々塗りつぶされて苦しんだ世代の議論が「政治と文学」である。
 彼らは確実に現在以上に真剣に政治に向き合ったし、その中で個を生かす方法を必死で考え続けた。にもかかわらず、痛みは深くなっていった。我々にも十分同じ道が口をあけている可能性がある。
 同じ痛みを経ても、突破する道はあるのかも知れない。自分自身の正義感の発露として、表現したいと思うことを私は反対しようとは思わない。ただ重い歴史的前例があるのに、無防備すぎるのはまずい。文学史の専門としての意見でもある。

 文学者は反俗的であるべきである。革命的でなければならないということだ。だから社会に対して何も言わないということも不自然である。不正義に超然とすることが文学者の仕事ではない。この世の人間の問題として、自然に思うことを言うべきであり、望ましい生について語るべきである。

 私自身今の社会情勢がいいとは全く思わないし、折りにふれて言おうとつとめる。ただそれこそ大多数の人には同意されないと思うが、現政権の方針も、それに反対する大多数の主張も、そして今夏の芥川賞にあらわれた変化も、全て同一の根から出ていると私は考えている。その共通する根に私は反対したい。
 反対することだけに意味があるとイロニカルに思っているわけではない。変えなければいけないと思う。ほとんどの人にまともに同意されないのにどうやって? でもやっぱり答えは書くだけなのである。文学を本気で仕事にするだけなのである。

(2015.9.26)

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