書く自分に嘘がないか

 現代小説の一つの傾向として、私が疑問に思うのは、その「作為性」である。文章も構成も、作者の作為がありありとわかる。「自然に書いた」ような作品をほとんど見かけないのは偶然ではないだろう。小説界は、作為を競う場となっている印象がある。

 虚構であるからそれは必然だという主張があるのであろう。しかしまたもう一つの傾向として、小説の内では非常に感覚的・受動的な人間が描かれる。小説家は作為的に感覚的人間を描く、というべきだろうか。

 この要素二つが重なるというのは、実は大変気持ちの悪いことであり、簡単に言えば、「わざと考えないようにする」書き手の姿勢につながる。「見えているものを見えていないふりをする」「考えればすぐわかることを考えないふりをする」といったことになろうか。

 虚構の小説の人物と、作者そのものは分けてもらわないと、と言うのであろう。だが、それほど簡単に分けられるものが芸術なのであろうか? 虚構と言って描写の後ろに隠れ、作為で世界を操るのが小説であろうか?

 作為性を発揮するためには受動的人間が作者には都合がいい。現代社会のいわゆる「暗部」の中にただいて、時に衝動的に何かはするが、特段考えない人間たち。それを作為を持って作者が描写する。

 私が疑問に思うのは、そうした姿勢になる時、どこに真実があるのか、ということである。登場人物はもちろん作者ではないから、「空想の人物」である。そうして書いている作者自身も作為をふるっているわけで、自然な彼の真実はない。

 すべてが「よくできた嘘」なのだろうか。だが私たちは「真実の声」があることも、人生の経験としてよく知っている。抜き差しならない瞬間に発せられる、作為の余地のない言葉があることを知っている。

 現実の生の中で、「この人が本当のことを言っている」という瞬間は必ずあるのである。その意味では、作為に従属する現代小説は、現実の人々の言葉よりはるかに劣ることとなる。

 私小説を目指し、自我を基軸にした大正期の作家は、皆「よくできた嘘」を書く能力があった。しかし彼らは決してそれを選ばなかった。徹底して真正さを求めたからである。

 それは作中人物の真正さだけではない。「書いている自身の真正さ」が、彼らにとっては何よりも重要であった。小説を書く瞬間、自身の精神に対して一分の嘘もないことが彼らの究極の目標であった。

 これはある種の事実の告白であるとか、そういう形に矮小化されるべき点ではない。純粋に、書いている今の自分に嘘がないか、という勝負である。自身の思考。自身の感情。これは決して簡単なことではない。誰もが作為で身を隠したがるからである。

 彼らは抜き差しならない状況で出る、真実の自己の叫びを、つねに小説で実践したかったのである。志賀は最後にどんでん返しを仕組むような作為性はよくない、と言う。そこまでの過程が、作者にとって嘘になるからである。

 作為よりももっと上位のものがある、それが小説だと志賀は明確に考えている。その思想が果たして現代小説によって本当に否定されるべき「時代の文学」であ るかどうか、私は問いたい。私たちは作為的な文章を書くより、自身に何一つ嘘の無い真実の文章を書く方がよほど難しいからである。

(2014.6.22)

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