イロニーの先へ

 小説がイロニーだ、というのは、私には受け入れられない定義である。イロニーのような思考は、一番芸術が退けなくてはならないものだと私は考える。ルカーチを読み返すと、ますますその思いが強まる。

 イロニーは結局一種の思考停止をもたらす。また、明るい姿を見せたイロニーというのも実は多い。「これは現実には何にもならないけれど、自分が実践しているからいいんだ」という、思考停止した明るさ。よく芸術を志向する人間が陥る。その明るさだったら学問の方がよい。

 事は動かせるところまで動かさなければならないし、現実とは戦えるところまで戦わなければならない。思考は考えられるところまで考えなければならない。それで初めて、学問でも政治でもない芸術の強さがあらわれる。

 イロニーだって、苦悩なのだと言うだろう。しかし小説はやはり、イロニーの先に行かなければいけない。小説を宿命づける「イロニーでしか書けない」という前提は本当なのだろうか? 文学を疑い続ける現代の人間は、まずその前提を本気で疑うべきではないか。

(2014.12.16)

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