人文学と経験しない生

 人文系の学問は「役に立たない」と、よく無遠慮に言われるが、人文学者の側も「役に立たないからいいんです」と苦笑して答えがちである。その言い方に腹立ちと矜持をこめているのだが、あまり良いやりとりとは思えない。

 遠回しな表現も時代によって力はが持てない場合がある。今の時代は「役に立つ」と真顔で言うべきだと私は思う。何の役に? 人生の役に。

 人文学は人間のことを考えている。一人の人間が生きて死ぬとはどういうことか考えている。我々はこれから生きていかねばならないが、これからの人生で何が起こるか知らない。まことに恐るべきことである。

 喜びだけではない。無数の悲劇もあるだろう。これから来るべき喜びと悲しみ。私たちはそれを朧気に感じている。感じることで微かに立ち向う用意をする。なぜ感じることができるのか。人文学的な発想があるからである。
 人間はこのような喜びと悲しみを抱くのか。だから、自分はこのような喜びと悲しみを抱くかもしれないのか。それが人文学ということである。

 学問と言わなくてもいいかも知れない。けれどその希求が人間にはどうしても必要であるから、ずっと大切な学問の中心を占めてきた。
 人生に危機の無い人間なんていない。悲劇のおとずれのない人間なんていない。だからこそ私たちには人文学が必要なのである。

 人文学には人間が生きて、死んだ、ということが書いてある。死ぬことだけは知っていても、死を経験していない私たち、どうして人文学が支えにならないと言えるだろうか。

 これは自分の経験だけれども、私が怒り、恐れ、悲しみ、喜ぶとき、いつも文学があった。文学が怒り方を教え、恐れの克服を教え、悲しみの受容を教え、喜びの意味を教えてくれた。
 私自身が経験したことはまことにわずかなものである。しかし文学がはるかに多くの人間の生を教えてくれた。だから私はいま、教壇に立つ勇気を持つことが出来る。自分を支えた文学を信じるのである。

 人文学は観念ではない。そこに人間がいたのだから。人文学をいくらけなしても、人間の危機はその人間にも等しくおとずれる。

 経験しない生を自分の生とするための学問、それを私は人文学と思っているし、また「教養」もそこからしか語れないと感じている。

(2013.11.27)

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