文学の内にはすべてがある

 芸術とは対象を本気でつかみに行くわけで、それこそコミュニケーションの最も高度なあり方である。コミュニケーションという言葉は好きではないが。人間一人書くとき、どれほど相手のことをわからねばならないか。わからないと言いたくなっても、わからねばならない。でなければ書けない。

 コミュニケーションなど事新しく言わなくても、ずっと文学者は絶えず命がけでやってきた。そこを理解せず、「文学の外」のコミュニケーションを過度にもてはやしてはいけない。

 それは文学や芸術だけではなくて、学問とて同じことのはずである。歴史学は過去の人間のことをわかろうとしているはずである。自分ではない人を。ないものを。
 そういう知や芸術の切々とした道が、人間関係の脱落者の如く茶化される淋しい社会になっている。無論学問の側にも問題はあろうが。

 文学の内にはすべてがある、と宣言するのは勇気がいる。文学を選んだ人間がそれを言うのはあまりに傲慢に映るかも知れない。けれど、誰であれ、ある専門を選んだ人間は、自己の選んだものに対し、それを言ってほしいと思う。歴史家なら、歴史の中にはすべてがある、と。

 それは傲慢ではなくて、自分が選んだものへの敬意であり、責任なのだ。専門に携わるものが、力を信じずして、誰がその専門を信じるだろうか。ほかにはいないのである。

 高見順が「文学者の神は文学でなければならない」と言ったのは、そういう意味である。大変な決意だが、だからこそ高見の言葉は力を持つ。

 そして本当に信じることができたとき、はじめて他の専門も同じこと目指しているとわかるのであろう。

(2013.1.8)

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