『人文学の正午』第5号にて、「「書く私」の文学 臨場する自我・志賀直哉」という論を書いた。
あらためて志賀直哉という小説家の凄さを考えてみたい、と私は思うのだ。同時代の作家たちにはよく理解されていた志賀の凄さであるが、現代の文学の文脈では随分わかりにくくなっている、という感を持つ。
簡単に言うと、反復される経験でありながら、つねに一回性と直接性を持つことができたのが、志賀という作家だと私は考える。これは本当に容易なことではない。二十年前の経験の反復でありながら、あるいは自分がよく知り抜いた経験でありながら、今まさに、初めてのものとして、文学において書き手が経験できる。これが志賀直哉の凄さである。
だから志賀の作品には、小林秀雄が言うよう、何度読んでも、同じところで泣く、という現象が起こる。それは読者に対して変な仕掛けがあるのではなくて、書き手の経験の直接性に拠るのである。
小説というのは叙事としての構成の完成形を持っている。構成の完成形ということを意識する時、多くの作家は直接性をすぐに失う。顛末を知って書いてしまうわけである。しかし志賀は構成として完成させながら、直接性を失うことがない。
志賀についての論ではあるのだけど、この論文は一方で、「作品」を「書き手」に奪還したい、という願いもある。時代に逆行しているとは思う。「作品」は「読者」のもの、という議論が主流になってしまった現在、あえて「作品」は「作者」のものと、私は主張したいのだ。芸術は作品でもなく、作品が享受された時でもなく、作者が、作品を作っている瞬間にある、とあえて言いたいのだ。
芸術については、現代ではあまりにも享受者が強くなりすぎているので、作り手への敬意を回復したい、とも思うわけだ。一方的な鑑賞者でいるうちは、結局芸術の一番大事な部分はわからないかもしれない。
言葉というのは、本来直接性を奪われたものなので、文学はそこに如何に直接性を奪還するか、が目標になる。まして叙事である小説というのはずっと直接性との勝負である。そういう課題から志賀への強烈な敬意があった。
(2014.9.18)
オンライン公開中:「「書く私」の文学―臨場する自我・志賀直哉―」