ただ一つの文体

 若いときは、さまざまな文体が使えることが凄いと思っていた。論文の文体、エッセイの文体、web上の文体、小説の文体、同じ人が書いたと思えないほど、多様な文体を駆使できるのが、格好良いと思っていた。

 今は全く逆で、すべてを同じ一つの文体で書きたいと願っている。小説も論文も同じ文体で書きたい。小説と文体はたしかに世間一般では違う層の文章と見なされる。しかしそれを一つにしたい。
 自分は二つのことをやっている。だが自分は一つであるし、その二つはやはり一つのことである。だから、文体を一つにしたい。

 自己の文体を持った文学者は、何を書いても彼の文体である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは、何を弾いても彼の音である。それがあるべき姿なのだ。名が無くても、文体を見て、音色を聞いて、あの人だと思う、存在というものの成就である。

 多様な文体を駆使する人は世間に沢山いる。論文と小説で全く違う文体を使う人も多いだろう。現在、文筆で生きていこうとすれば、そうした距離感は致し方ないのかもしれない。だが、どちらかを取ればどちらかが嘘になる、そんな乖離をしている場合は不幸である。

 反抗と従順とが、無頼と特権意識とが併存していたら、それは奇妙なことである。併存が可能だということは、両方とも嘘なのかもしれないのだ。洋服を取りかえるように変えられる文体は、自分の体ではないのかもしれない。

 若い時は自分の文体を探して遍歴するのが普通で、変わることは多々あるであろう。けれど、一定の年齢になって、知識人としての立場を得て、矛盾した文体を持っている場合、私は良い印象を抱かない。その人の何を信じていいかわからないからである。

(2014.2.28)

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