ゴダール「さらば言葉よ」

 遅ればせながら先日、ゴダールの「さらば言葉よ」を観た。とてもいい映画で、もっと上映される街が増えることを願う。ゴダールのような映画が来る、というのが、本当の意味で地方を豊かにすることだと思うのだが。

 けれど自然の美しい土地なら、犬を連れて川や森の間を歩けばいい。犬がさぐりあてる草の露のにおいに、同じ世界を見るだろう。北方の自然だとなおいい。スイスの青い湖の小道は、北海道にもよく似ていた。

 映画が自然に近づいていく。自然が映画に近づいていく。私はゴダールが非常に明晰に自然に対する思想を語ってくれているように思ったのだった。次期の人間のあり方、とも言うべきだろうか。

 現代の哲学は依然として、他者という問題の周囲を回っている。他者とは人間の他者だ。けれど人間の他者の向こうに、本当の大いなる他者、自然がいる。精神と自然はどう結びつくのか。私たちはまだ答えがない。

 言葉は最も非自然的なものである。どうやっても隠喩でしかない。文学者の苦悩はずっとそこにある。我々は言葉を重ねても重ねても永遠に自然と出会うことはできないのだろうか。言葉は、あるいはかくも非自然的な芸術のすべては。

 否。印象派の絵画が率直に示しているもの。それは画家が自然と出会った瞬間である。画家の眼から光が放たれ、夕暮れの水の光が画家の眼に射しこむ。芸術家と自然は共に歩み寄る。これが次期の人間のありようなのだろう。

 映画の中盤に満ちる、モネへとつながる言葉が、来たるべき芸術の姿を明かしているように私は受け取る。

 社会が衰弱してくると、人間は人間のことばかり考えるようになる。人間の他者は他なる存在の半分でしかない。芸術も哲学も、半分のことしか描けなくなっている。社会を立て直すまでは、と必死になるが、そうした善意は芸術家としては脆弱なのかも知れない。

 老ゴダールの健康さは、惜しみなく最期に来るべき課題にひらかれていて、圧倒されるのだった。

 ゴダールは、反「物語」、反「統一」として語られることが多いが、私は逆に彼の映画はいつも、一つのもので貫かれていると考える。膨大な引用、イメージの飛躍、たしかに観る他者には「切断」や「飛躍」に思えるだろう。けれど彼にとっては、それは自然のつらなりだった。

 私たちの生は、一つの想起の連続である。あの森を見て、あの詩が浮かび、歴史を思い、今の自己の悲しみに触れ、女や男を思い、また湖を見る。精神が自然に向けられるとき、世界は火のように眩しく浮かんだり、焦点がおぼろにあわなくなったりするのもまた、自然なことなのだ。

 そこにあるのは一人の人間の自我で、彼はずっとつらなる行為をしているから彼なのである。老映画監督の清流のような自我の流れを見て、私たちは大きく勇気づけられる。

(2015.2.25)

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