言えなければならない

「言葉がない」とか「何も言えない」とか、私たちはつい言ってしまう。それも心からの言葉なのだろう。でもそこで言葉を閉ざして何があるのだろう。

 過酷な経験をした人に、自分ではかける言葉がないと思うのは誠意ではある。経験を共有しない、そしてその後まで支えることのできない人間の言葉など、かえって悪い、私たちはそう考える。しかしそれは放棄でもある。

 自分がどんな人間であれ、何かを言うべき時というのがある。間違えたくないがゆえに、沈黙する。そこに賭はない。敗北はないが、それ以上には何もない。

 私はやはり文学者や知識人が、「言葉がない」と言ってはいけないと思う。自戒をこめてでもある。もう少し言えば、自分に経験がなくても、何かを言えなければいけないと思う。

 芸術というのは、端的に言って、自己の経験以上のことを、自己のものとして経験することである。芸術家は何人もそのためにすべてを賭けている。想像を絶する経験でさえ、何としても経験しなければならない。

 文学とはそういうものである。虚構がどうして人生になるか。彼は「言葉がない」と逃げないから、彼以上の生を生きることができるのである。

 過酷な経験というと、思い出されることがある。アジア太平洋戦争下で、日本の兵士たちが何の本を読みたがったか。それは軍が用意した娯楽小説ではなかった。ゲーテや川端の「雪国」のような純文学であったと言う。

 彼らは彼らの過酷な経験を楽しく紛らわすものは選ばなかった。その過酷な経験に匹敵するものとして、芸術を選んだのである。彼らの経験とはまるで違う、しかしそこには、もう一つの真実の経験があった。私はこの事実を何より重く考える。

(2014.4.8)

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