悲しみとともに

「これが現実だ」と感じた時は? と尋ねると、ほとんどの人が苦い出来事を語る。なるほど現実とは苦い。真実には簡単にめぐりあえないが、私たちにはともかくも現実はある。苦い現実。苦さが現実の姿であろうか。

 アリストテレスが喜劇より悲劇を上位においたことの意味を、何度となく考える。誰もが喜びの方が好きだ。笑いの方が好きだ。誰もが笑いたいと思うものである。なのにどうして、あるべき芸術とは悲劇でなくてはならないのか。

 悲しみこそが現実であり、真実へ至る、やむにやまれぬ道なのだろう。そういえば本当の喜びにはいつも、一抹の悲しみがある。本当に嬉しいとき、人は泣く。さぐりあてていけば、そこにはたしかに悲しみがある。

 苦さも悲しさも、私たちは忘れるすべがある。そうして現実を忘れていく。いや、どうやっても現実を忘れることはできないのだ。向き合い続けるのは辛いので、一時、忘れたふりをしている。

 この笑いを求めつづける切実な営為の向こうで、巨大な悲しみがはじまっているとしたら。いまは忘れられても、人はどのみち悲しみから逃れられはしない。芸術は悲しみから逃げなかった。ずっと悲しみと相対してきた。だからこそ、私たちにはいま、芸術が必要なのだ。巨大な悲しみが始まっている、いま。

(2014.9.4)

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