作家と批評家の結託

 文学はもちろん感覚に就く芸術なのだけど、最近の作品はあまりにも感覚に論理を通すことを投げすぎているように思える。野放しに感性で書き散らし、批評家に上手いこと高度な主張を言い当ててもらうのを待つ、という姿勢が見える。作家と批評家の奇妙な結託? 

 批評家も相手が論理を省みない「感覚」ゆえ、反論もないので実にやりやすい。ひどくなると思わせぶりな「感覚的」キーワードをわざと散りばめて、批評家の 関心を惹くよう媚びる。それは論外として、作家の側が論理を批評家に明け渡すのは絶対的によくない。小説は小説として自立しなければならない。

 登場人物が感性のみで動き、「思考」を欠落させているような人間像がやたらとよく目につく。人間として不自然である。感性のみの未熟な人間を勝手に期待し て愛玩しているのだろうか。どんな人間でも一定の年齢になれば激しく思考している。思考するのはもっともっと理解したいと切望するからである。

 瞬間的な感性のみの礼賛は人間の高次のあり方の希求を阻む。理論の領域を侵犯されまいとして、感性ばかり期待する批評が小説を衰弱させたのか。

 小説は一つの理論であるし、そこに描かれる感覚はすべて、考え抜かれた理論の体系にしっかりと貫かれていなければならない。作家は狭義の「理論的」な言い方こそしないかもしれないが、絶対に批評家よりもはるかに理論的でなければならない。

 作家自身が理論の整序を投げ出して、「祝祭」や「飛躍」などの言葉を待つのは最もまずい。
 小説家の感性には、あり得べき人間の理想も、あり得べき共同体のあり方も、現行の社会のあり方への批判も、選ぶべき哲学もすべて宿っている。だから本当の小説家はそれを問われても答えることができる。盲目的な感性ではなく、最高度の抽象に至る明晰な感性なのだ。

(2013.5.14)

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