高見順

 

小林敦子『生としての文学 高見順論』
Jun Takami: Literature as Life | 笠間書院 | 2010

『生としての文学 高見順論』(笠間書院 2010年12月)

従来「転向文学者」として評価されてきた昭和期の文学者・高見順について、全く新たな視点から、その文学的思想を体系づけた研究書です。

「生としての文学」、高見順が作家的出発から最晩年まで、ずっと第一に掲げてきたのは「文学」でした。文学者ならば当たり前のことと思われるかもしれません。しかし高見順が生きた時代、「文学」は、ともすれば沢山のものの下位に置かれる時がありました。「戦争」だけではありません。「政治」「社会」「思想」「科学」「大衆」……高見順の言葉は一貫して、それらの前に文学を屹立させるために発せられています。
文学は文学それ自体に、大切な政治性と革命性があり、マルクス主義と拮抗し得る思想性があり、社会科学者が批判するような「実感信仰」では決して無い具象・抽象の理論があり、大衆性の名の下に奪われていく自我の哲学がある。高見順は非常に真摯に、移り変わる時代ごとに姿を変えて文学を脅かすものに論駁しながら、自らの「文学の思想」を深めていきます。同時代の文学者たちが高見順を「最後の文士」と呼び、敬意を払ったのは、彼の「文学」のための真っ直ぐな戦いによるのです。
高見が晩年に自らの思想を体系化していく上で、非常に大きな役割を担ったのは、若き日に出会った「自我の肯定」を描く白樺派、そして「生の拡充」を説く大杉栄の思想でした。本書では大正期の自我の思想、アナーキズムの流れが、豊かな水脈として高見順の内にしっかりと引き継がれていった過程を重視して描いています。

高見順は昭和期の重要な文学者と見なされていますが、ほとんどの作品が現在では入手困難です。(最高の作品『いやな感じ』が出版されていないのは、とりわけ残念なことです。)「時代の子」という評価が強かったためか、「時代が変わった」今、問題意識が共有しにくい、と受け取られてしまうのは、現代の文学のためにも大きな損失です。彼の作品、また彼の文学論はつねに、時代を超えた普遍的な文学の問題を提起しています。
例えば戦後の高見順と丸山真男の論争は、「文学と社会科学」の問題を考える上で非常に重要なものです。現在では丸山真男『日本の思想』は読むことが容易ですが、高見順の側の激しい批判を見ることは難しい状況です。(『日本の思想』のあとがきで、丸山が批判を受けて困惑したと言う「敬愛する文学者」とは高見順のことなのです。)
本書では、こうした状況を鑑みて、高見順の重要な言葉を出来るだけ多く、その本文を出来るだけ生かす形で紹介しています。

叙述の上で、著者としての一定の方向性はありますが、高見順の言葉を出来る限り正面から捉え、高見順が何を考え、伝えようとしてきたのかを、その人生を通した文学的歩みにおいてまとめることを目指しました。
本書が高見順の文学に触れる一助となることができましたら、これほど嬉しいことはありません。

【目次】

はしがき

序論
一 主題について
二 叙述について

第一章 選ばれた文学
一 自我の確立と文学
二 アナーキズムと前衛文学
三 マルクス主義と転向

第二章 現実としての文学
一 「故旧忘れ得べき」―昏迷する世界
二 「不安の時代」と反リアリズム
(一) 「描写のうしろに寝ていられない」
(二) 「不安の時代」
三 新しいリアリズムへ
(一) 一九三〇年代思潮―日本浪曼派
(二) 散文精神の意味
四 「如何なる星の下に」―現実のありか
(一) 「楽屋」の意味–現実の不在
(二) 「現実は書いているのだ」―「文学的現実」へ

第三章 戦争と文学
一 「文学非力説」
二 「大東亜戦争」の下で
(一) 近代の超克
(二) 「敗戦日記」まで
三 文学とアジア体験
(一) アジアという現実
(二) 「日本人」の意味―「二つの世界」へ
(三) 「馬上侯」―「文学的現実」と「二つの世界」

第四章 思想としての文学
一 思想としての文学
二 「文学的現実」について
三 「文学的現実」のために(1)―固有の方法
(一) 実感の意味
(二) 過程と本質
(三) 魂の発展
四 「文学的現実」のために―(2)「二つの世界」
(一) 相補性
(二)  「この神のへど」―相反する生命
(三) 自己ならざるものへ

第五章 生としての文学
一 アナーキズム―「生の拡充」としての文学
(一) 「革命芸術」と「芸術革命」
(二) アナーキズムへの回帰
二 生としての文学―「いやな感じ」
(一) 昭和時代を書く–歴史としての現実
(二) 「二つの世界」を生きる
(三) 「自我の拡充」と生と死



あとがき