妥協のない仕事

 芸術とそうでないものの違いについて、質問された時、「妥協の有る無し」と答えることも多い。芸術は一つも妥協してはならない。妥協があればそれ以外のものになる。これは学問でも同じことだろう。

「妥協」は様々な色合いがある。自意識によって、自己を甘く保全しようとする妥協もあるし、他者の評価を恐れてする妥協もある。社会的立場を掠め取ろうという、全く別の目的のためにする妥協もあるだろう。(それは迎合と呼ぶが。)

 近年の学問の分野での妥協、というか迎合は甚だしいものがあり、真実かどうかを追究するよりも、現行の学術界での「評価」を勝ち取ることを第一の目的になされる研究も多い。一見わからないようで、すぐにわかる。妥協の影は消せるものではない。

 中には居直って、自覚的に学術界での社会的立場を競争的に勝ち取るために、真実の追究も自己の本来的動機もかなぐりすてる者もいる。本人は悲壮な決意なの かもしれないが、それでは単なる俗物である。そういう人間に限って「大学の研究者など偉くないんです」と卑屈に振る舞う。

 それは謙虚なのではなく、その卑屈な振る舞いによって、また別の社会的評価を掠めとろうとしている場合さえあるのだ。私はそういった人間が心から不快である。

 本人が一切妥協なく仕事をしている人間は、自分にも他人にも厳しいし、「偉そう」にも見えるものである。そのことで彼は他人から距離もおかれ、様々な社会 的チャンスにおいて、不利益も被るのであろう。しかし彼は「偉そう」と言われても、許せないものは許せない。本気なのだから。

 俗物をやりたいなら、何も芸術や学問の世界に入ってくることはない。もっと華々しく儲かる世界はいくらでもあるだろう。それとも現行の社会的成功では飽き足らず、先人たちの築き上げた「歴史的権威」まで欲しいのか。

 学問や芸術に敬意が今なお払われているのは、苛烈な先人たちの闘いがあったからである。文字通り命がけの妥協のない闘いであった。歴史を超えて敬意に値する壮絶な闘いであった。それを知らずに俗物的欲望の延長で手を伸ばすなど、傲慢にもほどがある。私は怒りを禁じ得ない。

 人間はその一回切りの一生をかけても、本当に優れた仕事ができるかわからないのである。妥協している暇などどこにもない。まして自分自身で妥協を認めてしまっては、何も進むことができないのだ。

(2013.11.17)

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