生の孤独さの中で

 近頃は、近代的個我を本当の意味で超えるには、と考えていて、二日に一度くらいひどく閉塞した気分に襲われるのだが、やはり芸術の持つ孤独さという本質は手放すことはできない。生の孤独さと言うべきか。近代的な「私」でなくても、私は淋しい。作り手は淋しい。享受者がいても歴史になっても淋しい。
 同時に、芸術をする人間の自立、ということも強く意識させられていて、自分が果たして自立しているのか、という課題も重く感じる。芸術をする人間の自立。生の自立。作品も、作品をあらわす場も自分の力で生み出して、そのすべてを自分で引き取る覚悟。

 生が芸術だと、高見順は火のように声をあげてその生を全うした。生が芸術になる時。芸術が生になる時。孤独さが屹立する時。自立する時。孤高に達した芸術家と、「芸術」をやることをあえて求めない、物静かな人の人生にそれはよく宿っている。

 不思議なことに、人生は戦いにもよくたとえられる。高見順も文字通り「文士」として戦おうとした。戦って戦って戦って、最後に孤独な生を得る。まことに生は壮絶だ。でもそれは、素晴らしいことではないか。戦う時は実に人間前向きだ。自分自身で、戦うべきところを決めて、退かない。

(2015.5.14)

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