遊びと時代

『芸術は遊びであるべきだ、と彼は言った。しかし彼は、どうやって遊べばいいかわからなかった。』……ベールイは、ある芸術家について、そのような主旨で評している。

 それなりに感じるところのある評価で、「遊ぶ」ということもまた、簡単ではない。昨今は、遊んでいるかのような人は多いけれど、本当に遊びに我が身を捧げて楽しんでいる人はいないように思える。

 我々のほとんどの「遊び」の内には澱がある。逃避であり抵抗であり、罪悪感であり、自己嫌悪であり、純粋な喜びの感情と言うには、あまりにも悲しい無数の濁りがある。

 遊ぶためにも、理論が必要な時代なのであろう。真面目な方がいい、と言うのは、そちらの方が今の時代、純粋な感情に近いからである。「回り道」は意味があ るようで、人を帰路につかせない時がある。純粋な動機と純粋な行動、真っ直ぐにそれをしていても、時間が足りなくなる時代というのもあるのだ。

(2013.5.17)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.