時代から「出た」言葉

 よくなめされた文章を読みたい、と思うのは現代ではアナクロニズムと同一視されてしまうようだ。「現代的」用語を駆使しないと思想的にも進んでいると思われないのだろうか。

 大正昭和期の作家の文章というのは、抜群に日本語として上手い。上手さというのは、一つ一つの言葉を完全に作家が自分の手の内に入れて書いているという点である。自分の意図も効果も、読まれたときの印象もすべて。だから言葉として全く過不足がない。

 彼らは仰々しい言葉を安易に使うのを最も嫌う。大きな言葉には大きな力がある、激しい言葉には激しい力がある、だから軽々しくは使えない。それにふさわしい時にしか絶対に使わない。

 また文章が生硬になるのを特に嫌がる。生硬さというのは、言葉を半分しか使えていないから生じる。意味はあっている、しかしその効果を理解していない、だからちぐはぐな形になる。そのために、彼らは自分が完全に手綱を取ることができる、ふさわしい言葉を懸命に探す。

 そういうよくなめされた大正期の文章(特に白樺派)を「思想的未熟」と侮って、生硬な文章を乱立させたのがマルクス主義の流行期だった。現在、当時の誌面を見ると、その主張への評価という以前に、仰々しい言葉の使い方に当惑するだろう。

 誤解を招きかねないので言っておくが、私は小林多喜二や葉山嘉樹といった作家の文章を、純粋に文学の視点から敬愛している。特に葉山嘉樹の文体は、近代文学において傑出した一つだと思っている。もちろんマルクス主義の文脈からもいい文章は沢山生まれた。

 しかし社会全体に流布した文章を見ると、決して良い傾向であったとは思えない。実際、現在の我々はほとんどそれらが「読めない」。意味はわかるが、同じものを感受できない。時代の文章だと見なすばかりである。その現象が今の我々にも起こっていないか、と言いたいのである。

 自分の文章に、時代の流行の影が落ちていることは、普通ひどく嫌なもので、時代というものから人間が逃れられないからこそ、作家は必死で格闘する。しかし現代は、安易に時代を受け入れよ、という姿勢が多くなった感がある。

 小さな教員として日々「現代」と向き合いえば、やはりこの「現代」が歴史的に良い時代とは感じられない。もし「現代」が良い時代ではないと本気で思うのなら、子どもたちには「現代」から出ることを教えなければならない。

「代案」の無い闘いが続く。「現代」の「代案」はあるか? 無いとして我々は「現代」の内から出ない。しかし檻の天井は開いているかもしれないのである。どうして過去の優れた営為を考えることさえ拒絶するのか。歴史は私たちにとって最も身近な「代案」の一つではないのか。

 言葉を補えば、時代から出ようとした過去の先達の闘いこそが、「代案」となり得ると言うことである。だからかつての優れた作家の文章を私は大切にする。

(2012.8.8)

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