次の世界、次の人間

 この時代が、この世界がどういうものであって、そしてこれからどうあるべきか、はっきりとつかむことが、芸術と学問の仕事である。もちろん政治よりもはやく。世界はこれからどうあるべきか。人間はこれからどうあるべきか。私たちは言わなければならないし、言えるようになりたいのだ。

 次の世界が見たい。次の人間が見たい。次の時代の曙光の内にありたい。こうした願いは強烈な生の推進力だ。自らの願いが、来るべき世界の奔流になってゆく、その歓喜。私たちに無いもの。私たちに必要なもの。

 巨大な歴史のあと、私たちは何かを目指すことをすっかり恐れるようになってしまった。変わってはゆくだろう、だがそれは自ら目指すものではない、と。学者も芸術家も、変わりゆく眼前の光景を追認するだけになった。学者の受動的解説、芸術家の受動的創作。何かを語り表現しても、そこには次がない。

 端的に言って面白くないのだ。インターネットの時代だ、新しい、加われ、とある種の人は軽々しく言うだろうか。そんなもの全く大した変革ではない。「個」が成立したような、あのもっと圧倒的な変革を私は見たいのである。これから二百年くらいかかったとしても。

 私たちの言語はまだずっと、近代の範疇にある。この言葉、この語り、表面的にあれこれ目くらましをしても、ずっと近代の言語の内にいる。そして近代の言語の可能性は、近代の作家たちがが実にやり切った感がある。だから根底から変えたいのだ。千年単位で文学を考えても、別に罰はあたらないだろう。

(2015.1.19)

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