人文系の学問の意義

 さてすっかり、今の日本は高等教育機関における人文系教育系学部削減の方針となっている。あちこちで動揺が広がっているわけだが、人文系の研究者も正しく自分の学問の意義を考えるべきだろう。自分では価値があると思っているが、社会がそれを認めない、と嘆いて終わるのでは情けない。

 人文系削減の方針の根拠にあるのは、ごく単純で、社会生活の実践力に乏しいという論理である。率直に言えば何かに直結する「労働力」ということだろう。だから歴史の教員のような「専門職」に就く人間以外必要がない、となる。しかし歴史の教員を作ることができるから歴史の学科をおく、というのは虚無である。
「歴史の教員」という職業がとりあえずあるから、そのために歴史の教員を作る、という発想はあまりに空疎である。なぜ歴史の教員が社会に必要なのか、なぜ歴史学が社会に必要なのか、そこを考えずにどうして職業の話にできるのだろうか。ひどい話だが、当事者もよく忘れたかのような発想に陥っている。

 人文系の学部は専門職に直結しなくても、もちろん存在する意義がある。いやそもそも、存在しなければならない。その学問を学んだ人間が一定数社会にいることが、社会を健康にする。健康にしようという動きは、時には何か病める形のように見えるのかも知れないが、人文系の学問は本質的には実に健康だ。

 言うまでもなく、人文系の学問はあらゆる学問の中で、最も原理的な思考をうながす。社会が不健康であるなら、その根をちゃんと突きとめようとする。不条理を不条理と自覚することができるし、その次には違うあり方があるのではないか、と考えることができる。どれほど重要なことであろうか。
 人文系の衰弱とともに、見事に社会は病的な構造の繁茂になっている。誰も手綱をとらない。とれない。目の前の枝葉を必死で刈るだけだ。誰も根のことを考えない。それで消耗して終わる。我々は根のことを考えられる人間をちゃんと何人も育てるのである。それが人文系の教員の矜持だろう。

 もちろん、人文系の学部を出なくとも、人文学的な思考をする人たちは必ずいる。それは本当に貴い人で、そういった人の方が大切な担い手と言えるかも知れない。しかしかの人たちに人文系の教員が頼っていい訳がない。それこそ怠慢ということだ。何をしているんだ、という話だ。

 ひとまず、文学なり歴史学なり人文系の学科は残っている。教員は人文系の学問が果たすべき役割を、ちゃんと教えられているであろうか。そこは自己批判があるべきである。知識や技術は正直二の次である。原理的な思考ができなければ、人文系を学んだということではない。
 細かな大量の知識を持っていても、歴史とは何か、なぜ歴史を人は描くのか、なぜ歴史を我々は知るのか、それを考えたことのない人間は、歴史科を出たということにはならない。文学科とて同じことだ。ごく当たり前のことだが、研究者がその問いを忘れている感がある昨今である。好事家は学問ではない。

(2015.4.14)

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