文学部の懐かしさ

 今日は西田幾多郎の蔵書を見ることができて、何だか懐かしいような、気持ちが静かになるような、感慨深さがあった。それは文学部というものの懐かしさなのだろう。かつてすべての大学の底にあった、静かな思索の香り。真理のほかに何も求めず、人の生と死のすべてを己が言葉で描こうとして。

 文学部は、もはや今の日本社会では行き場もなくなるようだ。西田幾多郎という人でさえ、否定される時が迫っているかのようだ。真の思索は否定され、人々は思索ができないように躾けられ、生きてるか死んでるかわからない日々だけが広がっていく。

 大学でなければ真の思索ができないとは、決して言わない。けれど、真の思索ができないのなら、どうしてそれは人間の教育のための場所なのだろう。経済は直近の労働力を求めることしかできない。社会全体が経済に傾斜した今、子供の精神の成長を守る最後の牙城は教育なのである。

(2014.10.27)

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