反逆という権威

 私は正直、イーグルトンのような理論には随分批判がある。そう言うと古風な権威主義的文学観に縛られているとよく思われるのだが、それは既に十分崩壊していた。むしろ文学の視座としては、完全に主流であり、一つの権威であった(「反権威」だと説明されたが)。

 小林秀雄のような、本当の意味で「彼は彼にしかなれなかった」という、「作家の顔」を重視する視点というのは、私の世代ではひどく新鮮な議論だったのである。そしてその不思議な作家の「私」のあり方に、驚いた。
 そして自分で、何かしらものを書くようになって、本当に力になる理論とは何か考えたとき、実践的な意味を持つのは明確に小林の理論だった。

 文学を成り立たせる社会的「制度」の解明や、「文学現象」のような視座も無益とは思われない。一つの社会を知る研究のテーマではあろう。しかし、それは文学の実践の理論とは実は大して関係がない、と私は考える。

「芸術を成立させる制度性への自己批判が無い芸術は駄目だ」、現在よく聞かれる芸術の実践のための理論である。しかし、私には、歴史的に良く似た言い方があることが気になって仕方がない。「自らのプチ・ブルジョワ性に自己批判が無い芸術は駄目だ」、というあの主張である。

 プロレタリア文学が、才能ある作家たちを引き寄せながら、ついに彼らの多くの才能を滅ぼす結果に陥ったのは、この論理の悪い使用であった。こうした自己批判を振り切って、ひたむきな芸術への集中と肯定があれば、どれほど良い「プロレタリア文学」が生まれたかわからない。

 小林多喜二は、当時のプロレタリア文学の理論としては仇敵とも言える志賀直哉を最後まで敬慕し、彼の晩年の作品はまさしく「私小説」となった。(絶筆の名作「党生活者」は、その私小説性により当時から評価が割れたのである)

「芸術至上主義」という言葉も私は好きではない。芸術は芸術としてそのまま社会性も、政治性も持つ。それがいくら「狭い」視座の「私小説」であっても。あえて「至上」という言葉を付すことはないはずだ。

 こうした私の感慨は、現在の文学の考え方からは受け入れられないであろう。しかし、繰り返すが「権威への反逆」が権威となっている場合はつねにあるのであ る。90年代に文学を学び始めてからずっと、私の違和感はそこにあった。上の世代と同じ反逆を続けていたら、単に優等生である。

 私より若い世代は、むしろ抵抗無く志賀直哉の作品を良いと思えるようだ。それを見て権威主義の亡霊だとか、制度的文学観に毒されているとか言う方が大変な 世代的偏見があるように思える。自分たちの世代を覆っている視座にこそ自己批判はあるべきではないか。自分はともかく若い世代と話すとそう思う。

(2013.1.20)

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