すべてがまだ「戦後」の内に

 芸術や学問は本質においては反時代的であるべきである。しかし反時代的であるために、時代の問題と組み合う時もある。我々の精神は、端的に言って逼塞している。正直人間の歴史の中で、今が目覚ましい精神の拡大の時期だと思っている人間はいないだろう。少なくとも日本は停滞期である。嘆息ばかりだ。

 何かしら我々は特殊な時期にいる。特殊な時期、つまり「現代日本」とは何か? いつからか? 近年は随分細切れに捉えられているようだが、冷静に見ればやはり敗戦後である。まだ我々は「戦後」の内にある。「戦後」などとっくに終わったのではないか? いややはり我々はまだ完全に戦後の内にある。

 90年代以降、すっかり「戦後」という言説は古びた感がある、新しい世紀が来たかのように言われる、しかしどうだろう? 現今の政治的な右派と左派の言説は何も変わっていない。現今の右派と左派の主張は極めて戦後的である。左派だけではない。右派も極めて戦後的である。
 現今の左派は右派を「戦前」への回帰だと批判する。しかし戦前を専門にしている自分からは、現今の右派はどうあっても戦後的である。戦前の右派とは根本的に違う。左派もまた違う。右派か左派かというより、戦前的か戦後的かという溝の方が巨大である。

 何をもって「戦後的」とするかは、もちろん相当な議論がいるところで、ここで俄に定義をしようとは思わない。ただこの「戦後的」思考というのが随分我々の主張の方向性を吸い上げているのは事実である。「理想」は、我々の世代の率直な実感に合わない構図に絡めとられて終わっていく。
 もちろんこれまで、「戦後的」右派・左派に組すまいとする主張は並行してあった、しかしそれが本当の意味で「戦後」を乗り越えられていたのなら、現在、こんな戦後的政治言説は生きてはいまい。まったくもって「戦後」は終えられていないのである。知識人は深刻に受け止めねばならない。

 たとえば、「ポストモダン」と呼ばれる思潮の多くが「戦後的」でなかったと言えるであろうか? そこに強烈な「戦前」を否定するという執着がありはしなかったか。モダンというよりも「あの戦争」につらなるものとして、戦前すべてを否定することに病的に執着していなかったか。
 あえて病的と書いたが、そう、我々の世代にとっては本来、その執着が理解出来ない方が自然なのだ。我々は上の世代の情念に実は引きずられている。直後の世代には直後の世代の情念がある、課題がある、しかしそれをそのまま下の世代におろして拘束すれば、下の世代は異常な苦しみを負う事にことになる。

「あの戦争」の悲劇性を私は全く軽く見るものではない。30代の私は「あの戦争」を直接的な経験として持たない。だからと言ってその本質がわからないとは決して言わない。そう言えばすべての芸術と学問が否定される。直接経験しない世代になってからが出来事は本当は重要なのである。

 我々の世代は、実は我々の世代の思想と言うものを持ち得ていない。実際我々は、我々の世代の政治を持たない。我々の世代の理想を持たない。我々の言葉を持たない。そのことに気づかない。これはどれほど不幸なことであろうか。我々はある時代をこれから正しく終わらせねばならぬ。そこからが始まりだ。

(2015.6.22)

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