文学は制度ではない

 現在の文学研究は、やはりある種の「制度論」が主流と見える。「純文学」という制度、「近代文学」という制度、「私」という制度……社会が作り出す奇妙な相関の構造。無意識の権力。あるいはよくできた作品装置。大方の「文学」にまつわる概念は、同様の方法で暴くことができるらしい。

 私は制度論的に文学を読むことに全面的に批判がある。そうした姿勢で文学を読むことは、少しも文学を高める糧にならないと思う。なぜそう思うか? 最初に我々が文学に感動した時、そんなことは少しも考えなかったはずだからである。我々は文学そのものに感動したのであって制度に感動したのではない。
 制度論者は、その錯覚こそが制度の術中にある……と言うのだろう。それはしかし生きてきた自分自身の実感をどんなにか軽くみることだろう。少なくとも文学研究者は文学を一生の仕事にしようとしている、その最初の動機を 錯覚の如く扱ってよいのか。死にゆく我々の経験は一度きりだ。
 彼らに言わせれば、「私」も制度かも知れない。だがならばちゃんと自らを制度の内に消し去る実践がいるだろう。少しも「私」を残さず。名も残さず。しかしそうした勇気をもった文学研究者に出会ったことはない。皆、結局「私」を残している。それゆえ私は制度論を言う人間を信じることができない。

 こうした制度論は、文学の道に入る時、随分と自分を苦しめた。当時第一線の批評家の言説と、自分の文学への感動が少しも一致しなかったからである。自分は文学を批評から入ったのではなかった。時代や解説など見ず、良いと思った作品を読んでいた。それは不思議なほど皆、戦前の日本文学だった。
 当時、最も忌むべき制度として批判されていた「純文学」である。さすがに若い私は自分が無学なのかと悩んだりもしたが、当時の批評家と戦前の作家とを比べた時、どうあっても戦前の作家の方が優れているという実感はくつがえせなかった。孤独な実感だった。
 今なら「それこそ制度論という典型的な制度だ」と言うところだが、20代の、文学の道に入る頃には、ほとんど先の無い世界に思えた。それでも私は戦前の作家の文学観にこだわり続けた。ノスタルジアではなくて、現在の自分の文学の経験だったから。尊敬すべきものはやはり、作家本人だった。
 今に至るまでには、様々な研究者から、あるいは作家志望の人から、そういう文学観はやめた方がいい、文学の世界でやっていけないよ、と何度も何度も忠告を受けた。現在もやっていけていないのかも知れない。しかし、自分の実感を否定するような文学なら、私はしない方がよかった。これからもできない。

 話を戻して、近代文学に優れた作品が多いのは、結局のところ、制度論を言う人間も実感として認めていることだろう。そうでなければそもそも文学の道に入ろうとは思わなかったはずだ。優れた作品と思えば思うほど、一人の「個人」の作品と思えない、という不安があるのだろうか。
 それでも近代文学は個人の作品である。古典をみれば、個を超えたもので書かれる文学も多いが、近代文学は明確に個人の顔がやどる作品である。そのことが他の文学にはない力なのだ。歴史の無数の凝縮の力を得た文学と匹敵する文学を、個人が挑もうとしたことに力があるのだ。

 個人として作者を見る。それは「神の如く」作者を祀り上げるということではない。ただ、我々と同じ死にゆく個人が、あれほどの文学に挑めた、そこに素直に感動すればいいということだ。本当に個人を超えたものは、その先に生まれてくるはずだ。

(2016.5.11)

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