他人の文体に入り込む

 自分にとって何かをあわらす言葉は一つであるし、文体は一つである。ところがそう信じていても、違う言葉で言う時がある。直接相手に話す時がそれである。場合によっては真逆の言葉を使うことさえある。何が起こっているのかわからず、不思議だった。

 自分の言葉を封じて、「わかりやすい」言葉を使おうとする非文学的な発想なのかな、と良くは思っていなかった。しかしどうも違うようだ。それは社会に共有された「わかりやすい」文体、ステレオタイプな文体を使うということではない。

 実は目の前の相手個人の文体に入り込んで、説明しているのである。その人の文体において、どういった言葉であらわされるか、ということを会話するとき人間は試みている。社会で共有された文体というのは、具体的な人間相手の現場ではほとんど役に立っていない。実際相手にとってもそれは意味がない。

 目の前にいる彼彼女の文体において語らないと伝えるべきものは伝わらない。つまり本当は個人同士の文体しかない。相手にとって同じことが感じられる言葉は 何か、相手の文体になる、これは大変な困難である。演劇のようだ。しかし多くの人間が自然に果たしていることでもある。あえてできると言いたい。

 ちなみに文章というのは、そういう現象は起こりにくい。相手がいるかいないかわからぬ。沢山の相手でもあり、独白でもあるかもしれない。そうした時はむし ろ自己の文体が貫かれる。どちらがいいということでもあるまい。他人の文体に入り込もうとすることも、芸術の一つであろう。あるいは小説の。

(2012.7.20)

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