道化と文学

 道化と真面目さというのは両立しない。他人を笑わせるために自己の「本当」を隠す道化と、自己の「本当」に従おうとする真面目さは相反するものである。もちろん本当に自分が笑っている笑いは真面目さだし、自己と切れた社会通念の「真面目さ」に従うだけならそれは道化である。

 道化が仮面を取る。彼の「本当」の苦悩があらわれる。それは純文学だろう。しかし一度仮面を取った彼は、仮面をかぶり直すことは許されない。道化に戻ることは許されないのだ。もし戻ろうというなら、先ほどの素顔の表情を徹底して嘘にしなければならない。観客に彼の「本当」を想像させてはならない。
 道化には「本当の苦悩」などあってはならないのだ。真面目に考えていたりしてはならないのだ。それはそれは大変な道だろう。けれど同じくらい真面目さを貫くということも大変なのだ。道化の真の悲しみは芸術家が知っているし、芸術家の真の悲しみは道化が知っている。

 一番悪いのは、道化と真面目さを行ったり来たりするということである。道化が仮面からちらちらと苦悩の表情をのぞかせ、またかぶる。やがて観る者は、彼の苦悩を想像しなければならなくなる。けれど道化は正面から「本当のこと」は言わない。道化をやめる気配もない。なのに想像だけさせようとする。

 道化の悲しみを思いやれ、と言外に主張するのは、芸術ではない。自分が傷つかないよう何かを得ようとする卑怯な姿勢だ。仮面をかなぐり捨てるならば芸術になろう。しかし仮面を捨てられないなら、芸術の世界に入るべきではない。両方を取りたいというのは自身の未熟さを露呈することを意味する。

 知識人も文学者も自ら道化をやりたがった時期が長くあるように思える。道化の方が賢そうに見えたから。笑わせて、さらに自分の苦悩をほの見せられるなら万能だったから。皆が道化をやりたがった。そして王がいなくなった。王のいない世界の道化というのは道化ではない。

(2015.7.23)

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