文学は強者のもの

 現代日本では、文学は「弱者のもの」と言うような言説に出会うことが少なくない。弱者に寄り添うように、あるいは自分自身が弱者であるからこそ、その弱さの苦悩をひっそりと訴えるように。しかし私は文学は強者のものであると思う。文学は強者のものでなければならない。自ずからの強さということだ。

 人間の強さや充足ということは、どうやら現代の文学では求められていない。何かに打ち克つ、真に満たされるという人間像は「現代的」ではないようだ。苦悩する人間が多いから? 一緒に苦悩すべきだから? だが私は、だからこそ、真に充足した人間像を文学は書いて欲しいと思う。そこに文学のがある。
 そう、現代、充足した人間を書くということは極めて難しい。我々はどうやったら、己を満たすことができるかほとんど知らない。言葉をかえせば、満たされない人間を書くのは楽だと言うことだ。充足を描くことを目指すより、安易だと言うことだ。現代作家としてこの自覚は持つべきであろう。

 現代、大人と子どもを描くのは、どちらが難しいか。これも同じことだ。大人を描くことの方が難しい。本当の意味で成熟した人間を描くより、未熟な子ども描く方が楽である。つまり自分が未熟なままで書けるからである。成熟は自分が成熟しないと書けない。
私は未熟な「大人」が、それを隠すように子どもを主人公に立てる作品は特に良くないと思う。優れた「子ども向けの作品」とは、完全な大人が、大人でありながら、子どもの目線になるから偉大なのである。子どものままの大人の作品は、己れの未熟と向き合わない分、子どもの作品よりはるかに悪い。

 弱さというのも同じ構造がある。「弱さは社会がもたらすものである」、「この社会にいるかぎり苦悩からは抜け出ることはできない」、「同じ苦悩の人が沢山いる」、なるほどそうか。社会にある「弱さ」や「苦悩」を描けば、沢山の共感が得られる。文学は仕事をしたというわけだ。だがそれでよいのか?
 忘れてはならないのは、ルサンチマンは「共感」の莫大な推進力になり得るということだ。我々が「共感」と呼ぶものの正体がルサンチマンであることは往々にしてある。自分は満たされない、だから満たされた人間なんて見たくない、同じように苦悩に這いずりまわっていて欲しい、そういう欲望だ。
「現代性」や「アクチュアリティ」のためと言って、生真面目に多くの読者の「共感」に応えようとすると、作家はずるずると弱さに引きずり込まれることになる。それは現代性でも何でもなくて、よくある大衆のルサンチマンである。文学は時代の苦悩に打ち克つすべを示してこそ、現代性があるのである。

「通俗小説が多数の読者を狙って書くとは、読者が常日頃抱いている現実の小説的要約を狙うという事だ。だから成功した通俗小説に於いてはそこに描かれた偶然性とか感傷性とかいうものには、必ず読者の常識に対して無礼をはたらかない程度の手加減が加えられている。」(小林秀雄)

 簡潔な大衆小説の説明であるが、弱さの「共感」とはこのような事態と不可分である。大衆小説とは何か? すでに読者が知っていることを書くことである。社会問題も現代的課題も、すでに様々なジャーナリズムであらわされたことを書く。よく知る「苦悩」・よく知る「弱さ」。それをくりかえす。
 だから人は大衆小説を安心して楽しむことができる。劇的でも、自分のよく知ることがくりかえされるので安楽なのだ。そこにあらわされた苦悩も、実は読む前から知っていたし、泣いても笑っても、読んだあとで特に考えが変わりはしない。webでも見た。車内吊りでも見た。そして自分の存在も要約する。

 現代人は、通俗的な「偉大さ」については、すぐ怪訝な目を向けられるのだが、通俗的な「弱さ」については、どうも判断を誤るようである。現代人が文学的に自信がない、ということは間違いないだろう。しかしそれもやはり、文学という巨大な時間を経てきた世界からは、我々の自己責任である。

 小林秀雄は「私小説論」で「社会化された私」ということを言う。一人歩きした感のある言葉だが、小林が言いたいのは、文学をやろうというなら、社会の正体ぐらい見抜いてみせろ、ということだ。文学者なら社会くらいすべて理解し切って見せろ、盲目的に社会の中で震える存在であるな、ということだ。
 社会の正体を見抜いて、社会の中を戦って生き抜いて、その上で社会に絶対に譲り渡せないものがあると気がつくのが、文学の「私」だということだ。かくも我々を拘束する社会というものの全貌を見きわめるところまできても、社会に征服されない「私」がある、そういう感動が文学だということだ。

 話は飛ぶが、私は文学者としてかなり高く曹操を評価するのだが(ある意味曹植よりも)、ああいう世界的に稀な英雄詩人の存在は面白い。英雄が文学を書いた、というより、あれほどの英雄でなければ文学は書けない、という事実にも思えるのだ。歴史と世界を見通す力があって、文学はできる。
 こういう例だと、あまりにも文学者の条件があがってしまうのだが、世界的人物の多くが優れた言葉の使い手であるということは決して偶然ではない。文学というのは本来、それくらいの仕事だと思う。文学をやろうというなら、我々もこの小さな社会の正体ぐらい見抜いて、勝ってみせなければならない。

(2015.10.14)

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