怒りの言葉

 いま、この社会の人に必要なのは、怒る力だと思う。ふさわしい時に、ふさわしい対象に、ふさわしい怒りを表明する力。気がつけば年々年々、人々は怒れなくなってしまった。あるのは内に溜まった怨恨と憎悪だけだ。そうではなく、高潔な怒りの表明が必要なのだ。人々は正しく怒るべきなのである。

 怒りとは、つねに何かのためにある。敬愛する存在のための怒りであり、大義のための怒りであり、真理のための怒りである。尊敬する人が軽んじられた時。子どもが軽んじられた時。文学が軽んじられた時。学問が軽んじられた時。真実が軽んじられた時。人は怒りをおぼえるように出来ている。大切な能力。

 優れた怒りの言葉は強く美しい。そうした言葉を我々は使う用意がなければならない。憎悪や怨恨を振り払って屹立する怒りの言葉は必ず他者に届く。局面も動かす。世界が言葉で出来ているというなら、なおのことだ。怒りの言葉が世界を動かすということを、多くの人々が忘れ過ぎている。

 理想を言っても他者が動かない時。理想を賭けた言葉で他者が動く時。前者の方が普通だと皆思うのだろう。けれど実感として、後者の方を私は沢山見てきた。真剣な言葉から、そんなに人は簡単には逃げられない。理想に賭けるのと同じく、我々も言葉に賭けてもよい。

(2014.12.11)

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