体系の無い知

 出版にせよweb上にせよ、哲学者や文学者の名言集のようなものが出回って、そして人気もあるようだが、あまりいいことと思わない。浅い知識で受容されることに不安がある、というより、その言葉が「情報」の如く見なされることへの危惧である。

 知も芸術も情報ではない。一言でわかる、便利な情報ではない。少しばかり「物知り」を装うために引用される、気の利いた情報ではない。

 情報としても知っているだけいいではないか、という意見もあろう。しかし気の利いた情報でしかない言葉は、結局単に言葉が消費されているということである。哲学者も文学者も一番嫌がることだ。

「名言を沢山知っている人間」が、知識人の定義のわけがない。知識人とは自分で思索をできる人間のことである。もっと言えば、自己の思索を体系化できるということである。一つの名言の背後には、そこに強固な思索の体系が存在する。

 手当たり次第の名言の収集は単なる羅列であって、思考でも何でもない。人がある種の名言に勇気づけられるのは、すでにその人の内に書き手と同じ思考の体系があるからである。すでに考えていた人間にのみ、先人の言葉は意味がある。

 しかし体系的に思索するということ、現代の日本は極端にこの発想が弱い。「体系」を拒絶する、便利な思想が流行した弊害であろうか。

 多くの「教養人」たちは、社会で事件が起こる度、次々「名言」らしきものを発する。なるほど気の利いた「名言」風だ。だが彼のばらまかれた発言を丁寧にひろってみると、思索の体系をまるで組むことができない。

 同じ人間が発した「名言」なのに、互いに矛盾しているのに気がついていない。あるいはその「名言」が実践の場まで行った時に、どうなるか、全くわかっていない。

 それらの「名言」は本当の意味で理論的に結びついていないのである。結局、感性にゆだねた思いつきを繰り返しているだけに見える。

 もちろん、私が彼らの論理の体系を見抜けていない、という可能性はあるだろう。しかし、知の現場をながめていても、自己の思想を体系化するという、根気の良い仕事をしている人間はほとんどいない。便利な社会のガイド、自己啓発本まがいの「思いつき集」はよく見かけるが。

 歴史的にみれば、哲学者も文学者も、四十代から五十代にかけては、知的には一番重要な仕事をする時期である。自身の思索の全貌を、完全に、一分の隙の無い形で、構築しようとする。あらゆる事象に対して、自分の中核をなす論理から、すべて矛盾なく説明できるようにする。

 私たちは同時代においても、こうしたひたむきで強靱な仕事を見たいし、自身もそれを目指さねばならない。

 自己の理論の体系が出来ているか検証できる、一番わかりやすい場は教育である。結局のところ、自分の論理に従って、どのような人間を育てたいか、本当に体系が出来ていれば戸惑うことはない。あらゆる人間の営為の中で、根源的にどう生きるべきか、追究されていれば、子どもに伝えることは定まってくる。

 最近は、教育と研究とは全く別のものだと言わんばかりの研究者は多い。間違っても研究や作品と、教育のあり方が分離してはならないのだ。分離する場合は、自己の論理に致命的な穴があるということである。哲学者は論理が成就すれば、必ず教育的な仕事をする。哲学の名著に講義録が多いのは、決して偶然ではないのである。

(2014.9.3)

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