純文学とアスリート

 オリンピックの時期になると、文学が目指すところがかえって明瞭に見えるようである。私は身体を第一の表現手段にしようとしたことのない人間だが、身体の動きを見るのはとても好きだ。身体を持たない文学にも、本質において同じものがある。

 純文学とは何か、を学生に説明するとき、よくアスリートのようなもの、と言う。彼は観客のために走るのでない、自分自身のために走る。やがて、自身が何処まで行けるか、は、人間が何処まで行けるか、と同義になる。

 だから純文学者は読者のために書くことはない。不特定多数の読者からの評価はおまけの褒賞である。もらったら、それはそれで嬉しい。しかし本質には全く関係がない。純文学者は、同じ高みを目指す存在からもらう評価は重く大きく受けとめる。だがそれ以外は徹底して自己の問題でしかないのである。

 小説においてこの部分を説明すると、なかなか実感をもってもらえない。誰もが沢山の人に読んで欲しい、と思ってしまう。「読者がいない作品」なんて、耐えられないわけだ。しかしここはもっと強くならなければいけない。

 アスリートを見れば、はっとするだろう。観客がいないから走れない選手なんてのは、そもそも資格がない。観客の期待に応えなかったからといって、彼の価値が下がるわけでもない。ましてその競技は、はっきりいって「実業」的には何も生産しない。彼が如何に速く走ったからといって、「食う物」はあらわれない。

 そんな人文学にも似たものを、守ろうと社会が支えるのは良いことである。経済界によって色々粉飾されているが、本質的にアスリートが「パンのためにならない」仕事であることは、誰もが知っている。しかしそこに存在意義を認められるのは、やっぱり優れた人間のあり方なのだ。

 無論現在、アスリートという存在に、経済的な利権がからんでないとはいえない。だが「売れなければ存在意義がない」かの発言が、臆面もなく言われるようになった文学界よりはるかにいい。発行部数がその作品の質を保証するものでは無いことは、誰もが気がついているのに。

 これは文学界だけではない。映画を作るのに資金がいる、資金のためにプロデューサーに援助を願う、資金援助のかわりにプロデューサーは採算を取れる証明を出せという、採算を取るために、すなわちより多くの観客に受けるために、自分が本当にやりたいことは諦める……こういった経緯が「世界的」と謳われる映画監督の口からよく漏れる。

 優れた映画監督にこうした発言をさせて恥じない社会とは何であろう? おそらく彼らはずっと観客に冷えた眼を送っている。そんな観客などいらない、というのが本音だろう。しかし作るために黙っている。その監督を褒めても褒めても、「パン」が出来なくても作れ、という観客はいない。

 私は現在、作り手たちに、アスリートのような敬意が払われないのが悲しい。作り手を支援するはずの、ジャーナリズムの大半は中間搾取団体のようにしかなっていない。
 絶望して筆を折った優れた書き手は恐らく沢山いる。その中に、自分と「同じ高み」を目指していた存在もいたかもしれないのだ。それが残念でならない。

 としても、遠い同志と出会う機会がなくなっているのは残念だが、純文学の原点に帰れば、孤独のうちに書くことが本質であるから、結局、純文学者は書き続けるだけである。それを理解している孤高の文学者たちが無数にいて、日本の文学は黄金時代を迎えた。文化の水準は、そういった原理が深く人々のうちに理解されている時にしか上がらないのだ。

(2014.2.10)

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