この世の文学・持続としての叙事

 半年ほど活動はしていたが、精神的には沈潜していた。いまようやく、洞窟を抜けたような清新な思考に。それは博士論文で出した結論と同じで、思えば原点に帰ってきたのだが、かつてよりもっとたしかに言えるようだ。生としての文学。そして自分はこの世の子だということも。

 思想には色や形が必要なのだ。比喩ではなく文字通り。思想にはどうやってもこの世のものが必要なのである。六月を待つ夕暮れ。紫陽花の蕾。うつろいゆくこの世の私とこの世のものたち。その具象をもって思想を書くのが文学者なのだ。宮沢賢治は言う、ここから見えるあの林が私の思想だと。

 芸術としては当たり前のことなのだが、我々はすぐ忘れてしまう。あの一期一会の具象、それを通して描けなければ文学は負けなのだ。この世は個物であふれている。個物に賭けてよいだろうか、芸術が弱まる時代はそういう不安が瀰漫する。しかしすべての個物ではない、運命の個物に賭けるのが芸術なのだ。
 ポストモダン的発想に疑義があるのは、個物のすべてを拾い上げようとするところで、それは結局モダンの延長になりうるからである。多くはモダンの個からずれるものを個として無際限に拾い上げているにすぎない。それでは具象と出会う緊張感が喪失される。芸術にはなれないのだ。

 現在の文学は、よそから持ってきた思想で書かれる作品と、ごく散発的な感性の動きで書かれる作品とに二極化している。後者の方がやや文学の本質には近い。しかしそれは悪い意味での抒情化であって、端的に言って弱い感性である。生はいくらでも散発さを発揮するが、そこを長く保たねばならない。

 長いということは大切なのだ。やがて消えてゆくものにせよ。抒情詩は叙事詩を目指さなければならない、というのは一つの真理で、叙事にはベルクソンの言う、持続の強さがある。消えてゆく私と、消えてゆく目の前の個物と、どれほどそれを長く持続できるか、それが文学というものだろう。叙事の芸術。

 恐らくこれから、時代は理念の復活へと逆行していくだろう。理念というものとどう付き合うか、散々悩んだ。しかしやはり、逆行であってはならない。我々は遠い理念に担保されている存在ではなくて、消えゆくこの存在として、その強さを発揮できなければならない。「歴史」に頼るのでもなく。

(2015.5.31)

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