純文学を守る

「私が『激怒』したのは純文学変質論の根本を私は純文学否定とみたからである。『純文学』と氏はカッコをつけているが、それを一時期のものとする限定は、純文学そのものの否定へと導かれる。そう見た私は純文学をいわゆるシリアス・リテラチュアとして、言いかえると文学から失われてはならないものと考えているのである。」

「純文学への攻撃はやがて娯楽実利を追及する出版資本とそれへの迎合者によって行われた。更に戦争になると、いよいよ露骨な攻撃が権力と結びついて始められた。国家を忘れた純文学は亡国文学だという攻撃である。これは戦争という特殊な状態における特殊な攻撃というのではなく、在野精神と野党意識を守り続けた純文学への連続的な攻撃のひとつと見ねばならぬ。」(高見順)

 これは1960年代の、平野謙の「純文学変質論」に対して書かれた高見順の言葉である。平野は過去の遺物である「純文学」が生き残るためには、中間小説の大衆性のような「アクチュアリティ」が必要だと説いた。それに対して高見は激怒した。

 高見順は純文学を守ろうとした。文壇の権威に閉じこもるために「純文学」という概念はある、現代の人たちは思うだろうか。しかしあえて言っておくと、高見 は「食べるために」沢山の中間小説的な仕事をしている。「大衆受けする作品」を彼は書かねばならなかった。それが彼を何よりも苦しめた。

 彼はそれらの作品で人気もとれた、収入も得た。沢山の人間が彼の作品を読んだ。しかし彼はその間、全く不幸であった。彼がどれほど作家として経済的に安定しても、彼はその仕事を愛せない。「自分のための仕事がしたい」と彼は切実に願う。これは高見だけの話ではないし、文学だけの話ではない。現在、私たちは無数ともいえる創作物を見る機会を得ているのだが、それらを享受するとき、作り手の 苦悩というものをどれほど思いやっているだろうか? 彼らがその作品を書くとき、自身で望まない方向性を強いられているとしたら?

 漫画のジャンルでよく聞くが、「止めたいときに止めさせてもらえない」「売れないからといって、強制的に方向性を変えさせられる」といったことは、作り手 にとっては最も不幸なことであろう。『売れるためには仕方がない」という論理に何の正当性があるであろうか。彼が「作ること」は破壊されている。

 自分は社会の欲望の単なる鏡と化しているだけなのだろうか? 彼らは自問するだろう。どうして異常な成功のあと、筆を折る書き手が多いのか。皆知っているはずだ。しかし知っていながら助けようとはしない。彼がやりたい仕事をさせてやれ、とは誰も言わない。

 私は大衆文化を基本的には支持しない。それは第一に、作り手に対するあまりもむごたらしい構造があるからである。読者と批評家だけが強く、作り手は何の権利も無いに等しい。作り出しているのは彼なのに。彼は何の敬意も払われず、作品が低劣になった責任だけ負わされるのだ。

 作り手を尊敬する構造があって初めて文化は高昇していく。そんな基本的なことが、「実利」の名の下に忘れ去られていく。作り手を滅ぼしているのは誰だろうか? 高見順が言うように、戦争中の「国家による強制」と本質は変わらないのだ。

 高見順が「純文学」の言葉で守ろうとしたのは、一つには作り手に対する敬意である。「純文学だけが守られて……」と思う人もいるかも知れない。違うのであ る。中心において確固として守るものが無ければ、他の創作活動はそうした社会の無責任な欲望を絶対に凌ぎきれないのである。

 純文学は、実利もなければ多数の読者もいない、それでもその存在が、創作ということの根源的な大義を守っているのである。だから純文学が弱まれば、大衆文 学も弱まる。芸術が弱まれば、大衆文化も弱まる。実際の作り手は気がついている。そして、この困難な社会条件の下で沈黙を強いられている。

 私は他人を喜ばせる、他人を楽しませる文化があってよいと思っている。そのなすことの難しさに心から敬意を払う。しかし作り手の純粋な願いを、私たちは もっともっと大切にしなければならないと思うのである。「大衆性」という時、私はそれが出来なくなる危険性を感じる。だから私は支持しないと言う。

(2013.11.15)

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