散文化の果てに

 私たちの叙事行為を覆っている膜があることを、感じられるだろうか。私たちは英雄の物語を書かない。英雄の物語を聞く人間の物語を書く。私たちは巫女の霊視を書かない。巫女の存在を仄聞する人間の物語を書く。私たちは狂人の確信を書かない。狂人の隣にいる人間の物語を書く。これは見事な閉塞だ。

 凡庸な人間・すなわち「私」に立脚しようとするのは、作り手が実感するようにリアリズムのためである。個物の存在を強力に肯定するリアリズム。英雄ではない自分にも意味があるのだと。それは世界の散文化といってよい。しかしながら、散文化の果てにいる私たちは、恐らく霧散の危機を迎えている。

 私たちはどこかで霧散しない理念を求めているが、理念に直接的に通じる人間を描くことができないというのは、不幸な事態である。英雄は歴史的存在として「歴史小説」で語られ、神秘は「ファンタジー」で語られる。現実にはどちらも存在しない。現実と歴史、現実とファンタジーは完全に切れている。

 少しでも理念に触れるかも知れない存在は、「〜を聞く(凡庸な)私」がただちに配置され、物語は入れ子構造になる。そうしなければ私たちは不安で不安で仕方がないのである。しかしこれは人間の叙事の歴史の中では相当な病理である。

「歴史小説」という枠を取り払って、現代の文学として歴史的英雄は書かれてよいはずだし、さらに言えば、現代とて、人間の理念を体現する英雄は書かれるべきなのである。19世紀の文学がなぜ強いか? 彼らは個である自分に理念を見た。漲る自信がある。我々はその勇気を完全に失っている。

 世界がすっかり散文化した現在、我々には霧散していく日常と、理念と引き離される苦悩と、反省的思考ばかりが残される。この現実は偉大な理念に通じていない。そして我々には歴史もない。現在の作家の最大の悩みは何か? 恐らく「書くべきことがない」ということであろう。

 自己表現としての文学、それは変わらず残っている。だが自己表現として終わるのは芸術の半分でしかない。他なるものを表現して初めて芸術は芸術足り得る。散文化する無数の自己のさざめきだけでは、やはり芸術はもたないのである。かつての古典主義に戻れとはいわない。だがそろそろ次の何かが必要だ。

 この間遠い膜を破ること。本当の意味で近代を超えること。パロディと自嘲の連鎖を断ち切ること。先の無い実践と、メタレベルに立つイロニカルな笑いから、私たちはもう踏み出す時が来ている。すぐに消費される笑いなど面白くない。すぐに消費される優しさなど物足りない。本気で戦う時が来ている。

 新しい文学の芽がどこにあるのか、ずっと探している。次の世代の仕事なのかも知れないが、やれるところまでやりたいのである。だから同志も沢山欲しい。

(2015.1.15)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.