自己が宿る時

 面白いことに、芸術は自己のための表現でありながら、「自己」が表現の目的となった場合は、自己は出てこないのである。「自己の表現」には小さな誤解が生じやすい。

 海が好きな人間が、「海が好きな自分」を表現しようとすればおかしなことになる。その自分は空虚な自己である。海が好きなら、海のことだけを考え、ただ海を表現すればいい。そこに彼の自己が宿る。

 作品が自己の生になっているという希有な人間は、実は作品のことしか考えていない。自分の全てを注ぎながらも、同時に自分のことは忘れている。目的は作品の成就なのである。そういう作品にこそ自己が宿っている。ほかのことがおざなりの人生でも、作品のことだけ考えられたら充実の生である。

「自己の声」や「自己の主張」も同じことで、実は自己が愛し信じた理念に、自己を忘れて真っ直ぐ向かっている時に自己が宿る。自己を手にするということは、鏡で自分の姿を反省的に点検するということではない。

(2012.7.19)

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