思想は博愛できない

 思想書を読んだから自分の内に思想が生まれるのか、それとも自分の内にもともと思想があったから思想書が読めるのか、という問いについては、完全に後者だと私は思っている。もともと自分の内にない思想は、本当の意味で理解できない。単なる知識になるだけだ。

 だから一人の人間が深く他の人間の思想に惹かれるというのは、ほとんど珍しい。ごく稀に、自分の内にあったものを見事に言い表してくれていると感じた時、そしてさらに高いところに導いてくれるのがわかった時、人はある思想家に影響される。思想書を濫読するのは、それを探し求めている頃だろう。

 濫読しても多くのものは知識になって終わっていく。自分の内なる思想と呼応しなかった思想は生きた思想にならず、つきつめて言えば自分の思想には意味をなさない。(ただし敵対する思想は糧にはなる。)思想や哲学を博愛することは本来できないはずだ。文学についても同様のことが言える。狭量でいい。

 文学者も思想家も、少数の先人から影響を受ける。著作を読んでいるから影響を受けているとは限らない。自然、影響を受けた人にはちゃんと言及する。言及しないということは、単に知識になったということである。知識は解説には役に立つが、自身の文学や哲学を進めることには役に立たない。

 何だか作家も研究者も、さかんな「交流」を要求される時代のようである。沢山の人間と交流するということは、博愛的にいかなければならない。しかし皆で仲良く共有出来る「思想」など残りかすのようなもので、思想の精髄は失われている。ならば孤独でいいではないか。友人が欲しくて書くわけではない。

(2015.6.15)

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