歴史の偉大さ

「ゲエテが、エッケルマンにこんな事を言っていた。…ロオマの英雄なぞは、今日の歴史家は、みんな作り話だと言っている、恐らくそうだろう。本当だろう。だが、たとえそれが本当だとしても、そんな詰らぬ事を言って一体何になるのか。それよりも、ああいう立派な作り話を、そのまま信ずるほど吾吾も立派であってよいではないか。

…ゲエテの言葉をもう一つ。彼は、こう言っています。健全な時代は客観的であり、頽廃した時代は主観的なものだ、と。これも実に当然な事の様に僕には思われますが、彼の言う客観的という意味が近代科学が齎した客観主義とは似ても似つかぬものだというところが、彼の言うところを難解なものにしているのであります。自分に、過去の英雄が立派な人間だと信じられる以上、彼に関する歴史が伝説に過ぎず、作り話に過ぎなくても、一向差支えないではないか、そういう態度をゲエテは客観的と呼んだのでありまして、一と口に言うなら、彼の客観的という言葉は、科学の、少くとも近代の科学の世界に属した言葉ではない。

…心を開いて歴史に接するならば、尊敬するより他に、僕等は大した事は出来ぬ。言い代えれば、尊敬する事によって、初めて謎が解ける想いのする人物が沢山見える筈なのだが、今日の歴史家はそういう事を好まぬ。」(小林秀雄)

 小林秀雄の歴史観は、まったく同意で、歴史上の存在を、(自らと同じ)小人物として扱おうとする姿勢は、大いなる誤謬の源であろう。「ゲエテを俗物と確かめたり、家康を狸親父と確かめたりしているに過ぎぬ。」歴史的対象を貶めることで、あたかも自身の価値を高めようとするように。

 かつて、古代から中世、亡骸を野に打ち捨てていくだけの時代があった。打ち捨てていく人々は、残酷であったろうか、貧しかったろうか、未熟であったろうか、そんなことはもちろんなく、もの寂しい事実であっても、彼らは我々にはただ偉大な人たちである。彼らがいたという事実が偉大なのだ。

 英雄には英雄の偉大さを、名も無き人々には名も無き人々の偉大さを、素直に信じられるようになれば、我々自身の生き方も、偉大になっていくのだろう。「歴史」がすっかりみすぼらしくなった現在、難しいことかも知れないが、この点、私は小林秀雄の思想を素直に継ぎたい。

(2014.10.23)

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