批評の衰弱

 批評界では毎月毎月、未曾有の名批評が発表されているかに聞こえるが、その割にちっとも文学論争が起こらないのはなぜだろう。

 戦前の昭和の文学史を見ると、実に激しい文学論争が繰り広げられている。我々は何を文学とするか。美とするか。どの哲学を取るか。時代とどう向き合うか。そうした問いをめぐって、彼らには論理上の仇敵がちゃんと存在する。

 論争が起こらない。それは批評界にとって致命的な衰弱である。批評家が、お互いに批判をしない。個性と論理をものとする批評家が、そんなに沢山の人間の価値観を受容できるとは到底思えない。

 結局、意識的無意識的に示し合わせてお互いを保全しているということである。ポリフォニックなどと謳って、お互いがお互いを必要なところで否定しない。それは互いの自由でも何でもなく、ある意味無関心ということである。

 もう少し言えば、自分の論理にも大して関心がないのかもしれない。本来自己の論理のために全力で闘うはずが、それほどの固執もない。それは「批評風言説」であって、批評ではない。

「気の利いたこと言って頭良く見られたい」「博学な用語を駆使したい」という自意識だけがあって、自己の哲学が欠如している批評が多すぎる。それを隠すためにお手々つないで馴れ合って……では、あまりにも困る。

 そして今や批評家は文学の中で闘う代わりに、批判対象を求めて外に出て行く。ろくに文学の中で批判ができなかった人間が、文学の外で何が言えるのか、私は疑問である。

(2013.12.12)

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