純文学と人生

「文学だからできる」という発想は文学への矜持であるが、「文学だから許される」「文学の中だからで許される」という発想はよくない。文学は何の痛みを負わないでよいユートピアではない。現実に生きるのと同じだけ過酷な世界である。文学でも、文学だからこそ、自分自身の生き方が直接問われる。

 かつても作家たちは純文学を「人生」と言った。古風な文学観のようだが、実際そうなのだろう。文学を通してその人の人生を見る、生き様を見る。何をしてきたのかを見て、何をするのかを見る。作品の「美文」だけを見ない。その文に広がるその人の人生を見る。自分にも相手にも、まなざしは厳しい。

 文学者が見る人生とは、もちろん社会通念としての価値観に従うものではない。だから時に、ユートピアであるかのような期待を生むが、実際は苛烈である。自分自身でどこまで自分の人生に筋道をつけ、鍛え上げようとしているか、そこにおいて容赦はない。生の条件が様々でも向ける厳しさは同じである。

 小説も詩も大切だった自分だが、この頃は、特に小説というものを第一におくようになった。小説の長さ、というものがどうしても重大なものに感じられるのだ。人生は一篇の抒情詩でもあらわせるのだろう、しかしやはり人生は小説の方が近いと私は言いたい。それまであって、これからがある。人生と同じ。

 文学には瞬間的な生に賭ける、という力もある、しかし一方で続いていく、という力もある。そしてやっぱり、私たちの生は続いていくものである。過去の瞬間に高度な達成の成就があっても、現在の私は淋しい。過去の私と今の私がつながっていると言いたい。そしてより高くなっていると思いたい。

 純文学の作家たちは、自分の人生とともにずっと仲間の作家の人生を見つめていく。私の人生は、彼の人生はどんな物語を描くのであろう。振り返れば沢山の誤謬も失敗も感じられるのであろう、それでも「人生の完成」をめざすのである。厳しいが、自分の人生を完成させたい、という願いは自分を強くする。

 私自身が、年齢と引き比べ、これまでしてきたことを考えると、どうにもいたたまれない気持ちになる。人間が三十代まで経験をふまえてなすべき仕事に、一体いくら達することができたのであろうか、このままで大切な四十代、五十代に何ができるのであろうか、そういう苦しさに襲われる。
 なすべきことをしなかった、という痛恨の念は大きい。そういう自分が瞬間的な生ということ考えれば、それこそ逃げになる。大いに人生を生き抜いた存在にしか本当の瞬間は与えられない。ファウストということだ。過去と現在と未来と。やはり私たちは見なければならない。

 人生に、社会から与えられる、かくあるべしという理想の形はない。しかし自分の内から聞こえてくる、かくあるべしという声に耳をそむけてはならない。おそらく誰もが自分の人生の物語の声は聞いている。その理想に他人を巻き込んでいるなら本当の声ではない。自分で変えられる、自分の人生の物語を。

(2015.10.8)

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