剽窃とオリジナリティ

 剽窃が問題になっている。日本の研究者の一人としては、虚しい気分になる。けれど翻って考えるのは、あからさまな剽窃ではない剽窃についてだ。言葉は一応「自分」の言葉で書いてあるけれど、内容はほぼすべて他人の意見の要約という文章は、実に沢山あって、また結構な評価を受けている。

 知識豊かな人なのだろう、国内外問わず、よく他人の文献を読んでいる。膨大な数のさまざまな麗句を次々に「引用」していく。しかし私たちは結局、そうした引用のからまる茂みを取り払って、取り払って、最後に彼自身が言おうとしていたことを見つけるしかない。そして、一生懸命茂みを刈ってみると、平凡な小石が転がっているだけ、ということがよくある。その石はあんまり月並みなので、その石である必要はなかった。

 引用は確かに最新の書物のものだったった。けれど結論はごくありふれたものだった。最新の書物を読み込んだ甲斐無く、この百年二百年何度繰り返された意見だった。それは一応、自分で見つけた意見ではあったのだろう。しかしどうにも、月並みだった。新しい意見として言うべき価値があるかわからない。

 膨大な他人の言葉の引用と、すでに人々に言い古されていた「自分の意見」と。剽窃云々以前に、今の研究の世界を大きく覆っている閉塞を感じる。真面目に苦悩する研究者はいるが、何も悩まない研究者もいる。歴史なんてものはさておき、わずかな現世の名誉に賭ける「職業研究者」は悩んではいけないのだろう。

 しかし我々は、何を「新しさ」として、「オリジナリティ」として考えているのだろうか。「素材が新しい」「社会が新しい」というのは正直頼りない。自分たちがそんなにも、生きているだけで新しさを体現していると考えるのは非常に自意識過剰で、二十世紀からこの方、私たちはそう新しくなっていない。人間には退行という事実があることを忘れすぎている。

 少しそこに注意を払う人は、「実践」こそがオリジナリティだと言う。これは間違いではない。他ならぬ個人が何か行為するということ、それは確かに何かにつながっている。

「学問」より「芸術」の側は、そうした主張を好む。だが芸術の側に深く身を置いている私は、逆にその実践の主張が、ひどく安易に感じる時が多い。実践する人間の尊さはある。だが、本当の意味で芸術であるためには、実践から導き出される結論こそが、新しく、オリジナルでなければならないのである。簡単に言えば、それまで見たこともない、人間の価値を強く打ち立てて示していなければならない。私は芸術にはそこまで求める。

 よくあるのは、結論は月並みだが、実践したことに意味がある、というもの。結論は流行の哲学者や、社会科学者や、ジャーナリズムが言っていること、それを個人が実践したことに意味がある、というもの。芸術を名のるかぎり、私はこれは認めない。
 他人の理論に従属する実践では、個人の実践とは言えないのである。芸術の実践は、一つの理論として新しく、独立していなければならない。哲学者の理論に対しても、屹立していなければならない。

 とても難しいことである。オリジナリティなんてもの、信じない方が我々には気安い。だが個我という不思議なものが、シュタイナーなどが言うように、人間の進歩の過程で獲得されてきたものだとするのなら、うち捨てるには早いかも知れないし、二十一世紀の現在、まだ誰も本気で個我であることを拒否しているようには見えない。これからも個我を維持していく気があるならば、何としてもオリジナリティという理念を手放すわけにはいかないのだろう。

「コラボレーション」「多声的」「多元的」「他者の声の交錯・交響」……この十年、芸術実践の機会では、よく聞くフレーズである。その実践のすべてが良くないとは言わない。しかしそうして喜々として「他人の声」を使うとき、自分のオリジナリティは何処にあるのか、本気で不安に思ってもらわないと芸術としてはみすぼらしい。「他者の言葉を組み合わせてみせた自分の実践だ」、と居直るならば、場合によっては剽窃の問題とあまり質は変わらない。

「オリジナリティなんてない、だから自分はそれを否定するために」、と言うならば、これは物凄く大変なことで、少なくともこの二百年の人間の生き方すべてを抱えて否定しきらなければならない。あまり「他者の声を使う」ということを軽々しく考えない方がよいだろう。

 剽窃が跋扈する、それがおかしいとは私たちは感じる。しかしその本当の正体は一向に見据えられていないようだ。現在日本に生きる、私たちの精神の内には、どのような病理があるのだろう。

(2014.3.28)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.