大人不在の文学

 現代の小説を見ていると、非常に子どもを主人公にした作品が多い。子どもとは、主に十代の人間である。作者は十代かというとそういうこともない。二十代なら身近な経験の記憶から自然とも言えようが、三十代、四十代の書き手が好んで書いている印象がある。これは不思議なことと思うべきである。
 そして大人を主人公にした作品は極端に少ない。「自身を大人と思えない」大人の主人公はまた多い。

 大人が子どもを書くのは大切である。文学は子どものためにある、といっても過言ではないのだから。しかし、子どもが書かれるためには、ちゃんと一方の極である、大人が必要なはずである。文学の世界で大人は何処へ行ってしまったのであろう?

 大人をいつまでも醜い社会の権化であり、永遠に反発の対象として描き続けて、何が生まれるだろうか。大人は子どもにとって必ず抑圧的存在となる、しかし一方で子どもが進むべき成長の姿も示す存在である。

「自分は大人ではない」と、一見子どもに共感的に寄り添うようで、肝心の成長の理想を示さない物語で子どもを包み、結果として大人になった時に、現実社会においていきなり妥協を強いるような状況になってはいないか。

 人間は絶対的に歳をとる、子どもは大人になる。この事実だけは動かしようがない。子どもはちゃんとその事実を受け止めているし、みな、悩みながらも成長したいと願っている。その自然にもたげる意志を打ち落とすような流れが現代どうにも強い。

 二十代になった書き手が、十代を振り返って書くとき、自分の成長を確かめているようで、とてもいい姿勢になっていることが多い。では三十代、四十代には何の成長があったか。これから自分はどんな人間になろうとしているのか。自分はどんな大人なのだろう。この問いから逃げてはいけない。

 高校の時の世界史の先生は、授業の際、エイゼンシュタインの映画のすばらしさについて、長い時間をさいて語ってくれた。高校生の私はその先生を「大人」だと憧れの目で見たのである。

(2012.8.9)

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