小説と真実

 私が理想としている小説というのは、三つの真実が成立している小説である。これら三つの真実はもちろん、成立した時は一体の姿をしている。けれどあえて分けて考えてみる。

 一つ目は小説世界の真実性。描かれた小説世界が、自律した真実性を発揮しているかどうか。作品世界が一つの生き物として完成しているか、ということである。

 二つ目は書き手の真実性。書き手が作品を書いている瞬間、本当のことを言っているかどうか。事実の告白/隠蔽ということではなく、書き手が本当に語っている言葉と同じ感情に、同じ精神になっているか、ということである。

 三つ目は対象の真実性。描かれた対象が本物であるかどうか。小説は決して自己表現に終わってはならない。やはり自己の外部の何ものかを描くのである。過去の自己も対象である。主観を超えて、描かれたものの真実を射貫いているか、ということである。

 小説世界の真実性が欠落すれば、単なる野放しの感情や思いつきの際限のない雑文になる。自分の感情を書いているようで、それでは自分の感情さえ実は出すことができない。あるいは事実の羅列になる。大量の混沌とした事実を受け入れるだけで、普段の我々が面する混沌と差がないので、小説の必要がない。

 書き手の真実性が欠落すれば、小説家は「人間は本当のことを言える」、という証明を自ら放棄することになる。作為の後ろに自己を隠していい気になっていると、人間の言語能力は地に墜ちていくことになろう。小説家でなくとも、本当のことが言える人間の方が意味がある。

 対象の真実性が欠落すれば、作品は永久に主観の内をさまようことになる。自他の壁を突破するから芸術はずっと、哲学からも畏敬の念を持たれてきた。この能力をよく知った人間は、他者だけでなく、自然の姿をも正確につかむことができた。この意識がないと、画家にも、あるいは科学にも簡単に負ける。

 これら全てを達成するのは大変な水準になるが、優れた文学者は皆、ここを最初の起点に書いている。才能の有無はあろうが、人間としては、できるということだ。あたかも神に近いけれども、人間は人間なのだから、その文学の歴史は希望である。

(2014.9.12)

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