虚構にして現実

 文学はよく、机上の空論の代名詞とされてしまったり、非現実の謂いとされてしまったりする。「むしろ現実的でないから、自由な想像力の可能性がある」という、嬉しくない賞讃もされる。しかし文学は決して非現実を目指すのではない。そんな自由は要らない、と本当の作家は言うだろう。

 どれほど非現実的であっても、現実を目指しているからこそ文学には存在の意義がある。幽霊がいないと思って書く作家は、いくら幽霊を上手に書けてもそれは究極幽霊にはならない。幽霊を出現させられるのは、幽霊を現実と思って向き合う作家のみである。

 もう少し言えば、文学と現実の関係性はそうそう単純ではない。「文学の外」に現実があって、文学がそこからわずかに像を「写す」だけだ、と思っていては文学に現実は宿らない。文学は我々が現実と思うものと本気で闘いを挑まぬかぎり、真の座に着くことはできない。

「虚構」という言葉は便利ではある。可能性の幅が随分大きいようにも思える。しかし「虚構」の名の下に逃げることがたやすくなっているようにも感じられる。作家は自分の作品を現実だと言わなければならない。

 古今の優れた作家は必ず、自分の作品は一つの現実だということを明確に言っている。受け手がそれを理解せず、「虚構の可能性」という形で曲解してしまうのである。言葉通り聞けばいい、彼らの覚悟の証なのだから。

「本で読んだ知識では駄目だ、実際に経験しないと」という戒めの伝統は長い。けれど経験の乏しい私が、自分の経験以上の出来事に向き合うことになった時、 支えになったのはやはり文学である。文学に現実が宿っていた、だから私は自分の経験以上のことをわずかでも経験していたと正直に感じられる。

 不思議な話だけれども、ある時写真で見た海の風景を、私はかつて自分の目で見たことがあると思った。しかし何処で見たかはどうも思い当たらない。よく考えると、それは鏡花の小説の描写だったのである。挿絵も写真もなかった。鏡花の文が一つの現実の記憶となっていたのである。

(2013.1.17)

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