我々を抱きとめるもの

 最近ずっと、西田幾多郎を読み返していて、二十代の頃にはわからなかったものに、絶えず触れている気がする。そして晩年の仕事にむかうにつれ、それが論理の深化のみならず、西田という一人の人間の感情がにじみ出してくるのを感じるのだった。彼が歴史と言う時、そこに如何に痛切な感情があることか。

 こういうものを感じると、芸術にせよ、学問にせよ、やはり本当の意味で理解できるのは、書き手と同じ年齢に至ることが必要なのではないかと思う。論理も感情も意志も、一つのものなのであれば、論理だけを私たちは共有することはできない。そこにまつわる感情も、意志も。

 歴史というものが大きくうつる。それは人が歳をとるということかも知れない。沢山の死別を経て、いよいよ淋しくなる一人の人間の生、その時歴史は美しく、大きく瞳に広がる。自身の生の淋しさを確かめるような行為でもある。歴史に抱きとめられても、我々は一層淋しくある。けれどそれでよい。

 我々は、どこかで自身を抱きとめるものに向かって生きている。「併しゲーテの底にあるものは自然であって当為ではなかった」(西田「ゲーテの背景」)我々を最後に抱きとめるものは歴史であろうか。それとも自然であろうか。私にはまだ、わからない。

(2014.11.14)

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