思考の淵源

 どんなに批判したくとも、同じ土台の上では根本的な批判ができないということがある。同じ思考的枠組みの中にいて、その内部で議論を争うことになってしまう。どれほど議論を交わしても、枠組みを強化するだけで、決して出られない。

 現代の閉塞を私はそのように感じている。一見我々は沢山の批判の武器を持っているようで、実際には根本的な部分を傷つけることができないよう去勢されてい る。反逆さえ「決まった形」がある。闘いはお互いよく知っているやり方で行われ、同じ土台から降りることがない。否、降り方を知らない。

 フーコーが指摘した生権力とは、そうした自身の内部にまで浸潤した恐ろしい逼塞のはずだった。なのに我々の多くが、かつてよりもっと「自由」になったと信じている。

 今の我々の思考の枠組みの淵源はどこに求められるだろうか? 70年代や80年代だろうか? そんなはずはない。そのあたりに転換があると思うのは、随分 同時代贔屓な見方である。人は自分の生きた時代を大きく捉えたいものだ。しかし少なくとも第二次大戦までは遡らなければならないだろう。

 文学史や思想史を見れば、戦争を挟んで、どの思考が選ばれ、どの思考が放棄されたかは明白である。そしてあの時選ばれた思考を土台に、今日の我々の思考まで、ある意味同じものが生え続けてきた。「反逆」さえも。
 今日の思考に(社会に)閉塞をおぼえるならば、淵源まで遡って、その時にあった違う思考の選択肢をつかまなければならない。全く新しい反逆の可能性は、そこにしか残されていないであろう。今の思考に居座って、「内破」できるなどと、安易に思わないことだ。そうやって沢山の人間が敗れてきた。

 もっと異なる優れた思想があったかもしれない。もっと根本的に異なる文学の道があったかもしれない。私たちが歴史を味方にできるとすれば、そうした点にある。檻の窓は本当は空いているかも知れないのである。恐ろしいはずの歴史が、時に人間を自由にする。

 現代では大変孤独な道であっても、過去に沢山の人間が同じ道を行っていたことがわかれば、不安は感じないものだ。百年前と、百年あとと、それが見えるような仕事がしたい。草野心平なら一万年か。

(2012.7.11)

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