明滅する語の広がり

「さを」「今日、此語から得る言語情調は、深青であるが、単に青い色であらう。」(折口信夫「万葉集辞典」)

 文学はまさしく折口が言うところの「言語情調」を如何に制するかの闘いである。意味以上の言葉の力。我々は「さを」から、「青」よりも深い青を感じるようになっている。つまり意味を超えた言葉の体を見極めて、使わなければならない。

 言葉の印象とは、実際は、意味はまるで違うが、一文字違いの、隣あう言葉が重要であったりする。あるいはよく似た音の。言葉自体が引き合う別の言葉の印象もすべて含めて用いなければならない。一つの言葉が喚起する別の語への広がり、その濃淡を的確に捉えて詩は書かれる。

 そして文章とは、本質的にはやはり初めから終わりに向かって進んでいくものである。このとき言葉の印象の持続力が問題となる。最初に書かれた「青」は、何字先までその青さの印象を残しているか。次の言葉の印象と影絵の光のように重なりあい、どのくらいの時間的残照を見せるのか、が重要なのである。 各の時間的長さをもって、生起しては消滅してゆく、その間詩人にとっては言葉は延長をもったものに思えるだろう。どちらかと言えばもっと「力」そのものに近いものだから、光のほうがふさわしいだろうか。「せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける」青い照明―?宮沢賢治の言葉は、言葉の秘密をよく描く。

 現代は「言葉遊び」をしている作品を過剰に評価する傾向が強いが、一語が引き連れる沢山の語のイメージを必須のものとして扱うのは、詩人としては普通のことなのである。どの詩にもそれはちゃんと行われている。 肝心なのは、詩人にとっては「語の印象をぶれさせる」気は無いと言うこと。詩人が実現したいのはあくまで強力な一つの印象である。「多様な意味を持たせているから優れている」ということでは絶対ない。詩人はしっかり言葉の手綱を取るために詩を書いている。 明滅する語の広がりを確かに制して、ただ一つの印象を生み出す、それが詩人である。言葉をぶれさせ、曖昧にする方が、実は簡単である。一語から喚起される他の語は異なる意味と印象を持つ、しかしそれさえ、詩人の手の内に入れる。そのことに我々は感嘆する。

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