具象の不思議

 どれほど古典的な図式であろうとも、哲学が理念で、芸術が具象である、ということで私はいいと考えている。理念と具象。このことは現代の芸術の世界では、もっともっと大切に追究されるべきである。

 もちろん哲学も、西田幾多郎が言うよう、最後には自己の個性を軸に追究していくほかはない。だから二つは大変接近したところにある。しかし西田はそれでも、決して芸術と哲学を同一視はしなかった。具象ではないことを、西田は哲学の抜き難い本質と考える。その矜持は逆に芸術家も持たねばならぬものである。

 具象ということが何であるか考えるところからしか、芸術は始まらない。現代の私たちは理念より「社会」を意識する。けれど理念の方が、芸術にとっては圧倒的な課題である。人間の歴史を渡って、汲み尽くせぬ闘いがある。

 理念と具象の関係に比べれば、「社会」の正体はまだやすやすと説明することができるのだ。「社会」はどれほど影響は大きくとも、最後のところで、芸術の本当の課題にはならない。

 芸術家の切願とは、理念を具象化することである。体を持たない理念に体をもたらすのだ。美はいつまで論じても体を持たない。芸術家が美しい花を描いて、理念を現出させるのである。

 その美しい花は具象であるから、個物である。ただ一つのこの世の花である。にもかかわらず、あの普遍的な美の理念であるとは一体どういうことか。恐ろしいことである。

 本当の芸術家は、美の理念への「途上にある」花、という曖昧さを残しはしない。単なる個物で終わってもいいとは絶対に考えない。彼の描く個物が、この世に理念を体現していなければ芸術にはならないのだ。極限の論理の極限の実践である。

 ただ一人の彼個人が描いたただ一つのこの世の花が理念である。私たちはその神秘的顕現の論理をほとんど解明していない。にもかかわらず、それが実現した作品を多く知っている。結果として、それができるとだけ知っている。

 具象というものの不思議、もう一度この地点に立ち帰って、芸術は問われるべきではないだろうか。時代も社会も超えた課題を追究するからこそ、芸術は本当に時代も社会も超えられる。人間存在に根を下ろすような課題を。

(2014.6.4)

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