大衆性と名も無き人々

 歴史の資料を読むことを重ねたり、日々の中で無数の人々に出会うと、名も無き人々の偉大さ、ということを誰もが考える。歴史に名を残さない人々は実際偉大である。道行き疲れ死んでいった人たち。彼らに文学がないかと言えば、全くもって彼らは文学的であり、芸術的である。

 私たちはそういう人たちに格別な想いを寄せるし、文学として学問として語りたいと願う。名も無き人々の織りなす文化、というものを私たちは愛する。

 しかしここには大きな陥穽があって、多くの人間は、大衆文化を名も無き人々の姿と見なしてしまう。大衆性は何処までいっても大衆性であって、名も無き人々とは無縁のものである。大衆性は国が時代が変わっても、特別変わるものはなく、名も無き人々の生とは乖離したところで作動する。

 大衆文化をどれほど突き詰めていっても、出会うのは相も変わらない大衆性であり、本当の名も無き人々はついにあらわれない。大衆文化には、民衆など宿っていない。名も無き人々の手を離れて作動する別種のメカニズムがあるだけだ。

 名も無き人々というのは、芸術家が大衆性と訣別した淋しい道行きの中で出会い、静かに頭を垂れるようなそういう瞬間にしかあらわれない。

 どんな人間でも大衆性という部分は持っている。持っていない振りをすることはない。そこに身をゆだねたがる欲望もあるし、過剰に排除する必要もないだろう。ただ、それが本当の意味で優れているかどうかは、冷静にかえりみる必要がある。

 名も無き人々につこうとするあの優れた意志が、相も変わらぬ大衆性をただ補強することになってはいないか。そこで華やかに賑わっているものは、あの名も無き人々であったろうか。

 大衆性の欲望は実に単純で、そうして我々個々人の願いとは必ずずれている。我々もやがて(今も)名も無き人として生きる。そしてそれは大衆性ではないことが、歳をかさねるごとにはっきりしてくる。

(2014.6.15)

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