作家自身の文学論

 作家自身の文学論が、どうもあまり大切にされていないように感じる。作家の文学論は、作品の次に大切なものである。制度や間テクスト性と言って盛り上がる 前に、一度しっかり読むべきものではないか。「作家主義」と言われても、やっぱり書いたのは作家個人である。作家をもっと大事にして欲しい。

 作家自身の文学論は、やむにやまれぬ義憤によって書かれたものがほとんである。同時代の無理解への反駁、後世への教育。あまり書きたいと思っている作家はいないだろう。作品だけを書きたい、しかしどうしても戦うために書く必要があった。そういうものが文学論である。

 文学論には作品の次に強い意志が宿っているし、作家の主張が抜き身で姿をあらわしている。それを軽視して、他の文脈に答えを求めるのは違うだろう。大概のことは作家自身がはっきりと具体的に言っている。まず作家自身の言葉を読むべきである。

 作家の言葉を見て「謎をあえて作っている」「読み手を困惑させようとしている」と解釈する人も多いが、作家は本来ストレートな人間である。言い方が我々に は難解にうつるだけで、彼らはそんなひねた発想をしていない。自分の文学論を謎々だと思っている人がいるわけがない。もっと直接的表出である。

 ひどく重要でありながら、放置されている文学論は実に多くて、もっと注視すれば、新しい文学のビジョンがひらけるのに、と日々思ってしまう。

(2013.4.11)

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