苦悩の無い文化

 現在の社会の問題については、まずなにより、知識人や芸術家の思考に淵源があると私は思っている。自分がそこに携わっているからこそ、余計はっきりと感じ る。知識人や芸術家の大半は、自分がこの状況を生み出したとは夢にも思っていない。しかし社会に対し、知や芸術が与える力を侮ってはいけない。

 自分の仕事のせいで、現在の社会がこうなった、という痛恨を感じる知識人や芸術家が欲しい。それは思いあがりではない。自分の仕事の本当の重さを知っているということである。

 自分の仕事なんて読まれない、参照されない、と思うのは謬見で、言葉を使う限り、必ず世界に何らかの石を投じていることになる。軽々しく吐けば世界において言葉は見下され、真っ直ぐ声をあげれば、言葉の力はその分強くなる。

 生動する時代の中で、言葉がさまざまな回り道をすることはある。しかしその迂回が、本当に言葉の力を高めるものであったかは、絶えず省察されねばならない。十年二十年を見越した、本当に必要な「韜晦」であっただろうか。

「遊び」や「好事家」を提唱することに、意味のあった時代もあった。でもそれは、傍らに極限化された「真顔」があって、意味を持つ「軽薄さ」だった。

 そしてこれほど真顔にならなければいけない文脈で、笑いだけが空疎に残っている。今の「笑い」も「遊び」も「無意味」も何も解放感がない。何が起こっているか、考えないようにする薄暗い幕として機能しているようだ。

 あと30年もすれば、こう言われる。「どうしてこの時代の人間は、本気で批判しなかったのだろう?」「どうして悲劇的な問題を知りながら、本気で取り組まなかったのだろう?」しかも「文化」は大変な産業に膨れあがっていて、とても国民は「文化的」なはずなのに……。

 私たちはすでに、随分手酷い代償を払っていると思うが、本来人間が持つ「真顔」の回復には、まだまだ足りないのだな。一世代前の「逃避」の亡霊が私たちを奥から動かしている。もはや意味の持てなくなった「逃避」……。そして「大衆化」という強迫観念の亡霊……。

 将来、ジャーナリズムを発行部数順に重要と見なして研究すれば、今日の時代は、まことに人々は幸せだったと結論づけられるだろう。実際私たちが、社会で目 にする9割の文章は、私たちを楽しませようとして作られている。それを買う私たちは実に楽しんでいることになる。苦悩を描く文章はただ少ない。

 過去には、苦しいから娯楽を求めるのだ、という時代もあっただろう、だが果たして現代はそうだろうか? その娯楽の前に、本当に自覚された苦悩はあっただ ろうか? いや苦悩はある。実に危機的な、苦しい時代のはずなのだが。不思議と私たちは「文化」に苦悩を求めない。最も戦う力のある文化に。

(2013.7.17)

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